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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅰ 十勝の空 編 9

 無事にスマホは手に入った。
 話とは違って、トバシではなく高岡ちゃんのサブスマホらしい。もちろんSIMカードだけがそうで、本体はトバシのスマホを高岡ちゃんが改造したものだ。通話通信共に無制限。差し込まれているSIMカードを抜くと、データがクラッシュして復元不可能になるそうで、必要なくなったらSIMカードだけ、同封のケースに入れて郵送して欲しいと、包み紙に手書きで書かれてあった。ケースを入れる封筒には、高岡ちゃんが店長をしている徳永の店の住所が印刷されてあって、ご丁寧にも切手が貼ってあった。背中で高岡ちゃんが「似合ってますよ、その頭」と半笑いで言ったのには少しムカついたが、高岡ちゃんには感謝しかなかった。これでガラケーを使わずに徳永に連絡がとれる。といっても、俺の予想が明後日の方向を向いた無意味なものなら、このスマホも使いようがなくなる。
 俺は、ホテルへ向かいながら、また自問自答した。行くしかないか……。

 雲は凸凹と厚くて、お天道様は顔を見せてくれない。
 けれども風は爽やかで、心地好く道を進んで行ける。
 松村が何故殺されたのかは、まだわからない。しかし、俺が進める方向はこれ以外思い浮かばなかった。この方向以外なら俺の旅はここで終わる。あとは警察頼みになるだけだ。
 津田から訊いた庶野の郵便局前の公衆電話は、襟裳岬の東側、海原と山に挟まれた原野のような空間を走る野趣満載の道道34号線と襟裳岬をショートカットするスムーズに走れる国道336号線が合流する地点の少し北にあった。
 松村進を殺し、そして、本意か不本意か知らないが、俺に罪を擦り付けることとなった犯人は、俺が襟裳岬の宿に泊まっていたその夜に、その場所から松村に電話したのだ。
 次の日の朝、前を通っていたのに気にも留めなかった。当然だ。こんなことになるなんて想像の片隅にも存在しなかったのだ。自分の目で見てみなければ気が済まない。それに、胸の奥にずっとある何かチクリとするものを、思い出すために。
 帯広の大通、国道236号線の市街地で、何度か車線変更をして尾行がないか確かめた。今日も尾行はいないなぁ……、と、思っていたら、シルバーのセダンがついて来ていた。
 (ほう、やはり人にはつかず、バイクについていたか)
 高岡ちゃんとの待ち合わせ場所に歩いて行って正解だった。それにしても、俺への尾行が津田と川口の二人だけなんて、捜査方針から俺は外れているのではないか?普通は何組かが共同で尾行するはずだ。
 しかし、バイクを赤色灯も回さずに車で追いかけようなど、どだい無理な話だ。
 俺はしばらく流れの良い右車線に相棒を走らせて、大通南27の交差点で、左折車のために詰まっている左車線に少し強引に割り込んだ。
 二台うしろを走っていたシルバーのセダンは、左車線に入ることが出来ずに、俺の横を通過する。憎々し気に見る川口の横で津田は笑っていた。
 俺はすぐにウインカーを点けて右車線に入り直し、先を行くシルバーのセダンを追い駆け、次の交差点で車列の先頭で信号待ちをしていたので、相棒を二列に並んだ車列の間を通って、シルバーのセダンの助手席側に横づけた。
 「帯広川西から上にのるから」
 ウインドウを下げた津田に言った。
 すぐに信号が変わり、俺の真後に覆面が続いた。
 初めて乗った帯広広尾道はさすが高架道路だ。左右に木々がない所では、360度地平線が見渡せた。何という広大さだろう。高い建築物がなく前後左右果てしなく広がる景色は、北海道でしか味わえないものではないだろうか。
 それにしても、デカい雲だ。この十勝平野全部を隙間なく覆いつくしている。これほどの大きさの雲を見たのは生まれて初めてだ。恐ろしさを感じる自然というものからの圧が半端なかった。晴天なら魂が抜けるような風景が広がるはずだ。しかし、今日は曇天だ。それでも、素晴らしい景色がここにあった。もっとゆっくりともっとのんびりと走っていたかったが、制限速度いっぱいで走行した。
 中札内ICを過ぎた辺りで、津田達の乗る覆面のうしろを走っていた2tトラックが、痺れを切らせたのだろうパッシングを続けた。
 俺はどうするのだろうと面白がってバックミラーを見ていると、助手席の窓から津田の手が伸びて、屋根の上に回っていない赤色灯をポンと置いた。すると、見る見るうちに2tトラックはうしろに下がっていった。津田は、なかなか笑いのわかる男だと、俺は思った。
 ロケットの絵の大樹町からは国道236号線に戻り、広尾町に入って国道336号線に入り、燃料を入れた。休憩するほどではなく、腹も空いていなかったので、そのまま先へ進んだ。
 トンネル内以外は来た時とは違う景色が流れていき、通って来た道を走っているのに、別のところを走っているかのように思えるのは、襟裳をぐるっと回った時にも感じたことだった。得した気分になる。
 荒磯トンネルを出て目黒の街に入ると、広尾町の豊似橋の手前から、ずっと前を走っていた二台のレンタカーが、『目黒生活館→』の案内標識が示す道に続けて吸い込まれていった。
 こんなところで?と、思っていると、控え目な『豊似湖→』の小さい看板があった。カーナビがついているから出来る芸当だ。タンクバックにある俺の地図では通り越してしまうだろう。
 乗っていたのは二台ともカップルだった。豊似湖で愛を誓い合うのだろうか?しかし、空でも飛ばない限り、ハートの形は見れないのだが。
 そんなことを考えていると、長い、えりも黄金トンネルが待っていた。
 ここを抜けて進み行くほどに、高い木々のない異質な風景色が強くなっていく。
 俺は、夜間、雨の日に続いて、トンネルが嫌いだ。ただ前を向いて走るだけのトンネルが嫌いだ。通り抜けなければ目的地に行けないから通るのであって、トンネルは嫌いだ。
 白浜トンネル、そして海側にフェイクのような穴が開いている短いフンコツトンネルを出ると、左前方のその先に青空が見えていた。
 左手の望洋台を過ぎると、庶野の町がポツポツと現れる。
 建物が密集した辺りで一段とスピードを落とし、庶野の町を走る。目的の庶野郵便局が右手に見えた。
 俺はハザードを焚いて、電話ボックスの向かい、道を挟んだ反対側の路肩に停めた。
 うしろを走っていた覆面は、少し離れた場所でハザードを点けて停まった。
 俺は相棒に跨ったまま、ヘルメットを脱ぎ、右ミラーに被せた。
 左のミラーでうしろを見ると、どちらも下りては来なさそうだ。俺との接触はしないらしい。
 タンクバッグからペットボトルのお茶を取り出して、喉に流し込んだ。
 (ここから電話をかけた。どうしてここだったのか?)
 エンジンを止めて、電話ボックスに向かった。
 何の変哲もない電話ボックスで、都会のようにカメラもついていなかった。郵便局の入り口と中にあるカメラを探したが、入り口は範囲外。建物にあるガラス窓の内側にはブラインドがついていて、閉店後に閉じられなければ電話ボックスが映る位置にカメラが一台あった。
 局内にいる局員と老齢のお客が、窓から覗き込んでいる俺を、不思議そうに見ていた。
 俺が引っ張られたぐらいだから、ブラインドは閉められていて、電話をかけた人物はカメラに映っていなかったのだろう。
 あの無造作に捨てたのと変わらない死体処理のことからすると、どう捻って考えても、突発的なコロシの線が強い。初めから殺すつもりなら、バレる可能性の少ない山の中に、あらかじめ穴を開けておくものだ。会ってみたものの話し合いでは解決出来ずに、勢いで殺してしまった。だから、カメラがない公衆電話をわざわざ選んだとも思えない。
 では、多喜川の白のセダンはどこへ行った?
 犯人の車と松村が乗った多喜川の車。二台の車を動かさなければならないと考えると複数犯の可能性もあったが、俺の中には浮かばなかった。犯人は、松村と普段から一対一で会話をしている相手なのだ。それに、話の内容は他人に聞かれたくないもの。今は誰もがカメラを持っている。何処で誰が録音・撮影をするかわからない現実だ。人気のない場所で話したことだろう。二人はある意味で同志だった。だからこそ、松村は何の疑いもなく相手の誘いに乗った。もし複数犯だったとしたら、並外れた馬鹿と相当な馬鹿しかいない糞馬鹿な複数犯だ。そうでなければあんな死体処理はしない。遺棄ではない。犯行を犯した者からすると死体は処理するものだ。
 もしかすると、単に所有の携帯電話が使えない状況に犯人はいたのではないだろうか?硬貨を使っていたとしたら、警察が中の硬貨を全部調べたはずだ。しかし、その中に前のある指紋はなかった。テレホンカードを使用したのだろうか?すると、犯人は、普段からテレホンカードを使うことのある人間。もしかするとそれは、俺より少し下かそれ以上の年齢の人間に絞られるのではないだろうか?若い奴らは全員、スマホ信者だ。そして多くのものは、昔を知ろうとしない。
 松村は多喜川の車で出掛けた、それも早朝と呼べる時間に。犯人も車で待ち合わせ場所に出掛けた。交通の便が悪いこの辺りでは車は必需品だ。二台の車。土地勘のない松村と犯人は、何処で待ち合わせたのだろうか?まさか、松村も知っている豊似湖の駐車場で待ち合わせたのだろうか?その駐車場は、人が殺せるほど、誰も来ない人気のない観光地なのだろうか?多喜川から聞いた話では“NO”だ。と、すれば……、殺したのは別の場所。
 松村を殺したあと車を処理するために、多喜川の京都ナンバーの車に死体を積んで、この地を走り回るのはヒヤヒヤものだ。この地域に住む誰かの記憶に残る可能性が高い。それに、これだけ交通の便が悪くては、犯人は、自分の車で松村の死体を運んだのだ。とすると、白のセダンは犯行現場に置いたままになっている可能性が高い。いくら広い北海道だからといっても、街中に車を放置しておくなんて出来っこない。広い農地にある小径だって、日に何度か車が通るだろう。山の中か森の中、そして……、海か……。
 俺は屋台の女将が聞いた松村の言葉から、どうしても次の日、松村と会いたいと気持ちが強いようだった。それは何故だ?その次の日では駄目だったのか?犯人に何かしら外せない事情があった。
 色々と巡らせながら相棒に跨った。
 もう一度喉にお茶を流し込んでから、ヘルメットを被り出発した。
 川口が気を抜いていたのか、ちょっと間があって覆面はついて来た。
 どうしてここだったのか?だけが、頭の中で不規則に動いている。
 俺は、俺が泊まったのと同じ夜に、えりも町に宿泊していた人間が、庶野の公衆電話から松村進にかけたのだと考え、その線で動くことに決めていた。それは単なる当てずっぽうで、何一つ確証はなかったが、自分の力で出来ることはないかを考え、その中で何か引っ掛かるものがあった方法。あの頃と同じ、俺の剥き出しの本能がそうしろと言ったのだ。
 昨夜PCで見たが、この公衆電話を使うと考えられる距離にある宿は、十軒ほどだった。多分、宿泊施設は警察が虱潰しに当たったことだろう。しかし、多喜川や女達の証言で、目立つなりをした俺が浮かんだ。松村の仕事にしても警察が知っているのは表側だけだ。そのせいで俺にしかベクトルが向いていない感が強いが、多喜川が素直に喋っていないことが、俺がやれるという隙間を作っているのだ。このワクワクする気持ちは、ヤクザ稼業にどっぷりと浸かっていた頃以来のことだ。とことんやって、スカッとしてやろうと思っていた。
 道道34号線に左折して、先っちょに向かって走っていると、思考のその奥で“Born To Be Wild”が流れ出した。Darling’ make it happen。だ。
 襟裳岬に近づくと、道から泊まった宿が見えた。路肩に寄って相棒を停めると、タンカースジャケットのポケットからガラケーを出して時間を確認する。十三時四十二分。帯広から二時間近く、うしろがいたせいで予定よりも時間がかかった。
 別にここに来なくても良かった。道中、頭の片隅で考えて、ある程度、考えの固まった部分と疑問に揺らぐ部分の判別が出来た。そうすると、何故だかここから始めないといけない気がしただけだった。
 俺はUターンしてから津田達の乗る覆面の運転席横につけて、「豊似湖に行くから」と教えて、覆面がUターンするのを待って豊似湖に向けて相棒を走らせた。
 多喜川から訊いたとおりに走ってみた。左折するところに案内標識も目標となるものもなかったが、今朝もPCで予習済みなので大丈夫だろう。まったく便利になったもんだと思う。国道336号線に出て『千平 ルーラン』の白標識が出てくれば、その道があっている証拠だ。ルーラン?となったが、ルーラン岩礁のことらしかったが、それには興味が持てなかった。
 うまく国道336号線に出た。右折してバックミラーに『千平 ルーラン』を確認する。左右が木々で覆われて展望がないと気分が萎える。展望あってこその北海道だ。次を左折して狭い山道に入る。益々萎えてくる。湖の近くに行けば砂利道が続くらしい。タンクバッグ以外の荷物は、ホテルの部屋に置いてきた。身軽な方が相棒の扱いが楽になる。
 細くくねった山道だが、川口は機敏に運転している。
 対向車と出会うことなく湖畔の駐車場まで五十分ほどで辿り着いた。
 十台ほど停められる駐車場には三台の車が停まっていた。
 俺は湖畔へ向かう道の近くに相棒を停めて、ヘルメットを右ミラーにかけ、グローブをその中に入れてシールドで蓋をした。
 湖畔へ向かう小径は少しぬかるんでいた。ブーツが汚れそうだがしかたがない。道中、男女一組の観光客とすれ違ったが、海外からの観光客だった。俺の少し離れたうしろを、津田と川口がついて来ていた。
 湖畔に着いたが、やはり、ハート感はなかった。
 前を走っていた二台の車の内、一台はさっきの海外からの観光客。湖畔の周りを歩けるのだろうか、もう一台の車のカップルは見えなかった。見える人影は一人だけだった。
 「こんにちは」
 すれ違いざまに声をかけられた。首から高そうなカメラをぶら下げた、山登り風のファッションで身を固め、肩には三脚が刺さったカメラバックをかけている年配の日本人男性だった。
 「あっ、こんにちは」
 すれ違いざまにただそれだけで、俺が来た道に去っていく。
 歩き去る男性の背中を目で追った。津田はニッコリと男性に対応したが、川口は足元が気になるらしく、声だけ出して男性の方を見ることはなかった。
 (やっぱりこれだ!)
 松村は、二人っきりで並んで歩いていたキャバ嬢のミリヤに気を盗られていて、通り過ぎる犯人には気がつかなかったのだ。
 もしそれが、松村に対してあまり良い感情を持っていない人間だったとしたら、大阪から若い女を連れての北海道旅行をして楽しんでいる姿を思い出し、話の途中で邪まな感情を抱いたとしてもおかしくない。
 俺は大きく二、三度、深呼吸して、脳味噌に酸素を送り込んだ。
 「よし」
 俺は湖畔から来た道を引き返す。津田と川口に「俺が来た道を返すから」とだけ言って先に足を進めた。駐車場に停まっている車は一台へと減っていた。
 思い込みでも何でも構わない、俺のやれることを今はやるだけだ。相棒に跨り、ヘルメットを被りグローブをはめる。エンジンを始動させて、駐車場を出発する。砂利道を慎重に体重移動させながら進む。
 前から車がやって来た。俺は左いっぱいに寄ってやり過ごしたが、うしろの覆面パトカーはそうはいかない。俺が停まってうしろを見ていると、履行出来る場所まで少しバックしてやり過ごした。
 早く先に進みたい気持ちが膨らんでいく。
 その後砂利道が終わるまで車が来なかった。舗装路に出ると今度は来た方向とは違う左に進んだ。カップルが乗ったレンタカーが二台曲がった場所に出る道だ。
 うしろもしっかりとついて来ている。しかし、明らかに履行出来なさそうな場所で、前から三台連なってやって来た。行きに車と離合することがなかったのは奇跡に近かったのだろうか?
 どうするべきかを考えたが、俺は、うしろの二人に向かって右手の小指と親指を伸ばし、電話するという仕草をしてから、相棒を操って車をやり過ごした。
 時間的なものなのか、それからも何台か豊似湖へと車が向かって行った。
 もしかすると、広尾方向から来る観光客が多いのか?車なら、来た道を戻った方が早いのではないかと、ふと思った。
 後ろに気を使うこともなく、曇天の下、広尾町のあの直線道路、道道1037号線へむかった。
 三十分少々で、あの日も休憩した広尾のコンビニ着いた。小腹が空いていたので、コーヒーとサンドウィッチを買い、相棒に腰かけながら食べた。食べ終わってから津田に電話をかけた。
 「今、どこ?」
 「あと少しで国道です。観光客の車が脱輪しましてね。川口さんがかなりご立腹ですから、覚悟しておいて下さいね」
 「大丈夫です。飛んだりせんから安心してって、川口さんに伝えといてよ。こっちは、道道1037号線をプラプラしてるから。のんびりおいでって」
 俺は勝手に電話を切ると、相棒に火を入れて、ほぼ直線道路に向かった。
 この前走った時とは空が違う。灰色の蓋で押し込められた、箱庭の中を走っている気分だ。地図を確認することなく走って行く。同じ道を走れば思い出すことも多い。チクリと胸に何か刺さるものがあった。その何かを探して今は走るのだ。
 今日も交通量はないに等しい直線道路を、のんびりとゆっくりと流していった。
 遠くまで続く波打つ道は、今日も抱いていた北海道だった。
 この前は所々に青空が覗いていたのだが、今日は雲しかなかった。
 空が気に入らないので写真は撮らない。写真を撮らないとすぐにこの直線道路は終わりを迎える。
 結局、道道501号線の行き止まりまで走っても、何も感じることはなかった。もしかしたら、ここではなかったのかもしれない。そう思うと、少し信念が揺らぎそうだった。
 来た道を引き返す。
 あの日と同じように、ゆっくりと、のんびりと。
 ふと、気になって左手を見た。海に続くと思われる砂利道がそこにはあった。
 「そうや」
 行き過ぎた俺はUターンして、砂利道に右折した。あの時、白いセダン、京都ナンバーのセダンが、目の前を強引に曲がっていったのを鮮明に思い出したのだ。あれは松村が運転していた多喜川の車だったのだ。
 俺はただ直感が示すままに相棒を走らせた。砂利道は凸凹で、慎重にハンドル操作とブレーキ操作を行った。森を抜けると左手には牧草地が広がっていて、右手には何の資材かわからないが置いてあり、作業車が動き人気があった。心が躍っている。
 微かに海の匂いがしてきた。海の匂いも本州とは違うようだった。
 しかし、まだ何かが胸の奥でチクリとしていた。
 最後の森をクネッと抜けると道は、海を正面に見て、左右に分岐していた。
 右の方向には、幅の広い轍が深くついていたので、俺は左に曲がった。
 正解だ。バックミラーには右に進路を取る大型ダンプが映っていた。あっちに行ったら誰かの目がある。それを知っていたから、白いセダンを先導していた銀色の“わ”ナンバーの運転手、松村を殺した犯人は、左に曲がったのだ。
 車一台が通れる、海と森の隙間にある地道は1キロ近く続いていて、建物らしいものはなく、所々、Uターンが出来るほどの広さを森側に作ってあった。白い車が停まっていればすぐにわかるのだが、そのどこにも多喜川の車はなかった。
 とうとう最後、道は自然に無くなっていた。
 思い過ごしだったかと思うと、気力が隠していた怠さが噴き出してきそうだった。 
 俺は気落ちしながら、行き止まりでUターンさせて、相棒のエンジンを切った。
 波の音が今は虚しく胸に響いている。
 ガラケーが鳴った。津田からだ。
 ―津田です。何処にいるのですか?―
 「あっ、ごめん。ちょっと気になって、海にいる」
 ―海?―
 俺は今いる場所を説明して、津田達がやって来るのを待つこととなった。
 ずっと遠く、海原の向こうに巨大な雲の終わりがあった。
 自分はなんとちっぽけな存在なのだと思う。
 これで俺の旅は終わるのか。そう思うと、視界が少し滲んだ。
 何も考えられずに、ただボーッと海を眺めた。
 最近はとんと夢として見なくなったが、撃たれた後、目覚めて少し経った頃ベッドの上でよく見た光景を、俺がはっきりと記憶している光景を、夢で何度も繰り返し俺の本能が忘れまいとさせて見せる光景を、俺は目が覚めている状態で、空の灰色に映して見ていた。
 一番記憶にあるのは、絹のような輝きを放ちながら揺れだした白い壁が、その輝きを変えぬままゆっくりと雲のように変わると、底からゆっくりと浮かび上がってくるピカピカのロックグラスやワイングラス、カクテルグラスにビールグラス達が、天井一杯に動き流れる様だ。
 高級な輝きを纏いながら流れるそれらは、手を伸ばし触ろうとしても3Dのように掌をすり抜けていく。いや、手などは伸ばさなかったのかもしれない。
 そのうちワインボトルが現れて、宙に浮かぶワイングラスに赤や白が注がれる。『新発売』とポップがそのうしろを流れる。やがて、それらも反対の壁に吸い込まれて消えていく。今度はピカピカの銀のシェイカーから水色の液体がカクテルグラスに注がれる。まるでそれは、カクテル『TOPPER』のようだ。音は聞こえない。音楽さえ流れているのかすらわからない。だが、流れ動くグラスはすべて、見事な透明を持っている。
 ゆっくりとそれらは天井に沈み消えて、右手側の天井と壁の一部に画面が現れる。『岩手県釜石』の文字を浮かべて、画面は松林のある通りを進んで行く。左手には個人経営っぽい酒屋が現れて、表には自動販売機が数台と積み上げられたビールケース。それを越えると画面は右手の松林を進みぽっかりと空いた更地を映し出す。松林の隙間からは、とてもキラキラした青い海がやさしい白波を立てているのが見える。心地良さを断ち切るように、ギザギザで囲まれた『激安』が奥から回転しながらアップになってボヨヨーンと止まる。左耳に「激安物件。激安物件。こんな人気の場所で750万。激安物件。激安物件」と連呼する男の声が左耳に聞こえる。けれども、左には白い壁があるだけで、その声は、白い壁の中から聞こえてくるらしかった。
 (へーっ。随分と進化したものだ)と、毎度そう思った。
 『激安物件』と『750万』の文字が暫く踊ると、最後に、名は不明だが、気仙沼市と書かれた不動産屋の住所とそれらしい電話番号が現れる。  
 (気仙沼は宮城だろ)そうツッコむ。
 足を踏み入れたことのない。土地の名が現れていく。
 画面は突然、京都・木屋町の高瀬川沿いに建つ店舗、そして焼肉屋と書かれた看板を映し出す。CMだ。そこから画は焼き網の上で焼かれている旨そうなハラミ肉のアップになり、今度は一旦引いてから七輪の横の皿に盛られた肉塊がアップになる。肉塊はキース・へリングの描く人形のようなイラストになって、そしてそれらは男女になって正常位でまぐわい始めると、画面は天井一杯に広がる。ヘコへコと動く男肉の腰と、それに合わせて下から突き上げる女肉の腰使いが、何とも可愛らしい。急に正常位からバックに体位が変わると、男肉の動きが早く激しくなる。そして画面はゆっくりと引いていくと、中国の兵馬俑のように男女の肉塊が隙間無く並んで動いている。
 それを見ていると、急激に空腹感に襲われる。肉が喰いたい。
 やがてそれらはすべて白になり、壁や天井はクーリングダウンするように、時折ボコボコと白を波立たせ始める。
 暗闇に引き込まれる。
 声で誰なのかは判別出来る。
 聞こえていないと思っているらしく、好き勝手に話している。皆、表と裏を使い分けて、もっと自由に生きているようだ。
 益々人間不信になる。必要な人間はごく僅かだ。しかしそれも、耐え切れずに去って行ったりしてしまう。やっと本当の立ち位置が確認出来たのだ。これからは気楽に生きていけそうだ。生きていればの話だ。
 複雑な廊下を折れ曲がり、階段を何度か上り下りして、見つけた出口から外の世界に出た。
 腹が減って肉を食おうと思ったのだ。
 遠くでクラクションが鳴った。
 何だ、何が起こったのだ。
 どんどん音が近づいて来る。
 クラクションと波の音が近づいて来るのだ。


よろしければ、サポートお願い致します。全て創作活動に、大切に使わせていただきます。そのリポートも読んでいただけたらと思っています。