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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅰ 十勝の空 編 6

 「ちょっと待って下さい。急いで服を着ますから」
 今の俺に、拒絶しなければならない訳も、拒絶するすべもなかった。だが、嘘を吐いて時間稼ぎをしたのは、この部屋の匂いだけは入れ替えたかったからだった。だって、彼女との残り香は、二人だけのものだから。
 ペットボトルを屑籠へ入れ、真っすぐ下へと落ちる雨筋が見える部屋の窓を、開くだけ目一杯に開けた。僅かに開いた隙間から、湿った朝の帯広の空気がそよりと流れ込んだ。そんな風の勢いでは、部屋に籠った昨夜の匂いが消えるとは到底思えなかった。
 冷蔵庫を開けた。彼女のために買ったミルクティーが残されていた。隣の緑茶のペットボトルを取り出して一口飲み込んだ。久し振りだからか、緊張しているらしい。蓋を閉めてデスクに置いた。
 それから、メモ帳を上から十枚ほど千切り、荷物置きの上に置いてあるヘルメットの横のタンクバッグに入れて、キッチリとチャックを閉めた。
 ドアの横のクローゼットに、臭い取りスプレーがぶら下がっているのに気がついた。急いでベッドの上の宙に吹き巻いた。霧状の粒が、そよりと窓の隙間から入ってくる風に乗って舞っていた。
 充分とはいえないが、匂いは違うものに変化していた。
 大きな欠伸をしながらドアを開ける。もちろんドアガードはかけていない。これでも少し時間がかかった。これ以上いらぬところで変に勘繰られるのは、とても気分の良いものではない。
 すぐに年長の刑事が片足を半分ドアの内側に捻じ込んだ。こいつらは本気だった。
 もし俺が素人で、それに驚いてドアを閉めコイツの靴が挟まったら、途端、コイツは驚くほど仰々しく喚き、即、公務執行妨害で現行犯逮捕だ。
 あとで馴染みの医者から診断書を貰って、無事に立件出来る。別件逮捕で48時間拘留出来る。そうすれば強制的に、時間の余裕を持って俺から話が取れる。やり口は、ヤクザも半グレも警察も、そう変わりはない。
 何がどうなるかわからない時は、素直に流れに身を任せてみるもんだ。俺はそう学んだ。
 若い方から手帳を開いて見せた。声の大きさが控えめなのは、他の部屋の客への配慮か。
 「道警釧路方面本部捜査一課の津田といいます」
 道警 釧路方面本部 警部補 津田光一郎と本人の顔写真。顔もソコソコ、スーツの趣味も良い。耳も潰れていない。クレバーそうで出世も視野に入れているのだろうが、もう少しだけ身長がほしいところだ。
 「川口です」

 そう言って年長の刑事も手帳を開いた。帯広署 巡査部長 川口輝利。隣の大卒と比べ、高卒叩き上げが顔に出ている。右耳が少し潰れている。経験値は高そうだが正義感の強すぎるタイプで、上からは扱いづらく、引き上げ手がいない、現場にしか居場所がないタイプか。安物のスラックスに、ちゃんとアイロンがあてられているのは、嫁がいて、夫婦仲がうまくいっている証拠か。
 二人の男が刑事だという俺の読みは当たった。衰えていなかったのだ。そうならば、刑事がこの時間に来たということは、多分、これから俺は所轄署へ持ってかれるということだ。身元照会も済んで、容疑者の内の一人として任意同行だ。そうでなければ、旅行中の一般市民が宿泊しているホテルの部屋に決め打ちするはずがない。悲しいかな俺は、公安にマークされるような大物ではない。警察がよく頑張ったということだ。
 「あのう、名刺頂けますか?」
 そう言うのが精一杯だった。一体何がなんやら?五年も経ってこんなことになるなんて、逃げ場は何処にもない。何故、近畿管区の警察でもない道警の刑事が俺のところへ?それに、今さらどの件でやって来たのだろうか?捜一が関わる事案なんぞに加担した覚えはない。追い込まれた末に、自ら命を絶った奴は何人も知っている。それは、そいつらの身から出た錆故の結果だ。それは、残された誰かを守るためのものであったり、調子に乗り過ぎて足るを知らなかったりした者の宿命だった。自業自得だ。俺には関係がない。いや、それとも、今になって、俺の認識していない北海道出身の関係者が殺されたというのだろうか?
 若い津田はいそいそと名刺入れを取り出し、川口の方は面倒臭そうに名刺入れを取り出した。
 二枚の名刺を手に、俺は二人を部屋に招き入れた。川口は一瞬だけ、意外だという表情を見せたが、津田は当然という顔つきだった。津田は要警戒だと頭の中でアラームが鳴った。
 刑事らしく厭らしい視線を部屋中に走らせている川口をそのままに、津田が話を始める。
 当たり前だが、全部調べた上で俺の所に来ているはずなのに、警察はまず名前を聞いてくる。疚しいことのない俺は、氏名、住所、生年月日、職業、旅の目的など、聞かれたことには、素直に正直に答えていった。苗字を聞いて、「変わった名前ですね」と言われるのは慣れっこだ。川口は俺のバイク旅の荷物を見ながら、「無職の癖に、いいご身分だ」とボソリと小声で言った。
 「それじゃあ本題に入ります」
 川口が急いで一枚の写真を取り出して、俺の目の前に突き付けた。
 「その方、御存知ですよね?」
 髪の短い男の写真だった。多分免許証の写真だろう。どこかで会ったことがありそうだが、昔の関係者とは三年ほど会っていない。色々面倒なことがあるかもしれないと思いながら、じっくりと考えたのだが思い出せなかった。それを俺は素直に言葉にした。
 「ほったらこと言って。三、四日内にあんたは会っているはずなんだけどねぇ。知らないの?松村進、知っているよね」
 焦れったそうに北海道訛りで川口が訊いた。
 川口の言うことから考えると、俺が北海道に渡って今日で六日目。彩香に初めてあったのが四日前だったから、三日前というと新冠の温泉施設の宿を出た朝からということになる。北海道を走ることが楽しいと思い始めた頃だ。
 松村進。全くもって聞き覚えのない名だった。けれど、俺の頭にあの男の顔が浮かんだ。人と係わらない旅だからこそ覚えていたのだ。
 「この黒髪短髪の男、今は髪がそこそこ長くて、金髪がプリンみたいになっているんやないですか?」
 津田が左の眉をピクリと動かした。川口が慌ててもう一枚の写真を取り出して俺に見せた。今度は、はっきりと見覚えのある男の顔がそこにあった。
 「コイツが殺されたんですね?」
 二人の刑事は顔を見合わせた。
 俺は無意識のうちに、プリン頭がいずれそうなる運命だったと思っていたのかもしれないし、久し振りの人の生き死ににかかわる緊張感からワクワクが滲み出ていたのかもしれなかった。。
 「やっぱりお前か」
 川口が勇んで言った。
 「まさか、疑われてるってことですか?ハハハッ、まさか。」
 今にも胸ぐらを掴みそうな勢いの川口が、何故か可笑しかった。
 「でしたら、じっくりとお話をお聞きしたいので、署まで一緒に来てもらえませんでしょうか」
 相変わらず津田は冷静だった。
 「任意ですよね」
 「そうです、任意です。拒否されますか?」
 拒否したらどんな微罪、信号無視でもスピード違反でも、ちょっとしたことでもしょっ引くつもりだ。それが警察というものだ。それは重々承知している。
 「いえ、一市民として警察には協力します。けど、三十分ほど待ってもらえませんか?起きたばかりで、歯も磨いてなければ、シャワーも浴びてないんです。あと、帰りもここまで送って下さいね。あっ、警察署へ行く途中、帯広卸売市場の食堂で朝飯を食べたいんですが……いいですかね?」
 津田は苦笑し、川口は目を血走らせた。

 シャワーを浴びている途中に、彼女=彩香の白い肌をふと思い出し、俺もまだ若いのかなぁなんて思いながら支度を済ませ、着替えてからは、部屋の荷物をまとめて室内清掃しやすいようにした。それからガラケーの中の彩香の電話番号を彼女の書いたメモの下に書き写し、発信記録から彩香の番号とフェリー会社に何度か問い合わせた中の一つを消した。
 部屋を出る時に鏡の前でキャップを被ろうか迷ったが、何か負けた気がするので被らずに、もう一度、ドライヤーで目一杯、鶏冠を立ててから勝負に挑むことにした。
 俺は、キッチリ三十分後、昨夜待ち合わせた一階のエレベーターホールに降り立った。
 覆面に乗せられた俺は、結局、市場の食堂には連れて行ってもらえず、帯広警察署の目の前にある牛丼屋で朝飯を済ませることとなった。
 どうして北海道までやって来て、貴重な一食が牛丼屋の朝定になるのか、甚だ疑問ではあったが、空に青空が広がっているわけではなく、今日も予報通り、空には重く鈍い色の雲が覆っていて、走りたくなくなるほどの雨が降っていることだけが救いだった。
 二階にある小規模会議室のような部屋で聴取を受けた。長い暇潰しの時間が始まった。
 ホテルでも話したが、もう一度、氏名、住所、生年月日を訊かれ、滋賀県の安アパートを出たところから、時系列で話をさせられた。これは毎度のことで、俺が容疑者リストから外れない限り、嫌でも、何度だって繰り返される。
 俺はヒップバッグから、このために準備してきた地図を取り出して、ルートを追いながら苫小牧から帯広までを掻い摘んで話して聞かせた。もちろん、彩香のことは言わなかった。地図で不満なら、カメラを出して見せればいい。ぐうの音も出ない証拠は大切に持っておく、暇潰しの醍醐味だ。
 それにしても、彼女は、サヤカなのか?、アヤカなのか?、サイカなのか?新しい疑問が生まれた。奈良のラーメン屋が思い浮かんだ。
 松村進という名のプリン頭のチンピラもどきとは、三日前の襟裳岬で初めて出会っていて、土産物屋で少しトラブルになったことも素直に話した。
 「松村さんと同行していた従業員の方と、女性二人からも話は聞きました。あなた、トラブルになった時に、その従業員の男性に暴行を働いたらしいですね?」
 津田が穏やかだがしっかりとした口調で訊いた。
 「暴行やなんてたいそうな。うしろから肩を掴まれたので、怖くて、身を守る為に仕方なく防御しただけです」
 「ほう、半グレ風情が、生意気に」
 「川口さん」
 津田が急いで年長の川口に注意を促した。
 川口は言葉にしなくてもいいことを口にした。ここがまず最初の出所だ。もう必要ないと踏んでゴミに出してしまった、俺が常備していたICレコーダーがないのが残念だった。
 「半グレでっか?今のは聞き捨てなりまへんなぁ。おたく、今、私のことを、半グレ風情って言わはりましたなぁ。こらぁ名誉棄損でっせ。オタクらも調べて知ってるように、私は被害者でっせ。半グレやヤクザもんとは知らずに仕事付き合いしてたら、ある日ズドンですわ。それで今まで築き上げたもんは全部パーですわ。今だっていつ死んでもおかしない身体で、死ぬ時に後悔せんようにって、念願の北海道をバイクで旅しとるんですわ。その貴重な時間をわざわざ割いて、わざわざ協力してる善良な市民を、よりにもよって半グレ風情呼ばわりでっか。ホンマ、許せへん話でっせ、なぁ、津田さん」
 「まぁまぁ、そう捲し立てないで下さい。こちらが言い過ぎました。川口さん、言い過ぎです。さぁ、謝って」
 川口は、渋々ながら「言い過ぎました。すみませんでした」と、俺に頭を下げた。すると、津田も一緒に頭を下げた。出来た野郎だと俺は思った。これでこいつ等から情報を訊き出す隙がなくなった。
 「それで獅子王さん、三日前に松村さんと会われた時に、あなたは、どういった印象をお持ちになりましたか?」
 印象?津田が何を聞きたいのか推測出来なかった。
 「印象と言われても、外国人観光客に絡んだり、態とぶつかってきたり、面倒臭いヤツだとしか……。それで、その松村進というヤツ……、いや、人は、どこで見つかったんですか?」
 「十勝川の音更側の岸です」
 津田は答えながら、注意深く俺を観察していた。川口は、何を嘯いてという表情で俺を見ている。
 俺は地図のどの辺りかを指で探していると、
 「ここ」
 川口がぶっきら棒に、俺の手を持って地図の一点を示した。道道498号線が近くに通る、十勝川に帯広川と札内川が合流する地点の、少し手前の音更町側だった。
 「この場所で」
 何故、音更署ではなくて帯広署なのだろうか?
 「ニュースでも流れていることですが、殺された松村さんは、大阪府枚方市で工務店を営んでいましてね。自分のところで仕事を受けるだけでなく、下請け孫請けもあって、その上、色々な現場に手持ちの職人を貸し出すこともしていましてねぇ。あなたも昔、内装業の会社をなさってましたよね?」
 「あー、はい。けど、この人がスケに来ていたかどうかなんて……」
 “スケ”に二人は反応を示した。
 「ああ、スケは助っ人のことですわ」
 「なるほど。知らないのは無理もないですよね。五年前、あなたは朝井樹生に撃たれたあと、持っていた会社を全て処分した。手を広げ過ぎていて、下っ端まで意識が回っていなかったかもしれませんね。ですが、花押会の高峰、いや、センチュリー産興という会社ならご存知ですよね?」
 「センチュリー産興……?」
 朝井の名を出してきやがった。昨日の今日で、よくもまぁ調べ倒したものだと感心した。それがわかった以上、慎重にことを当たらなければならない。
 もちろん花押会の高峰は知っている。沢木に頼まれて、ニ、三度、義理がけがあるからと高い人夫代を払ってやった。その時の支払先名義が、確かセンチュリー産興だった。
 「ご存じないですか?」 
 「いやぁ、もしかしたら、あったような、なかったような。すみません、なんせ昔の話は、あまり思い出せなくて」
 「では、話を変えましょう。松村さん達と揉めた次の日、あなたはどうしていましたか?」
 津田が話の矛先を変えた。松村が死んだのは一昨日ということだ。
 俺は、えりもの宿を朝八時頃に出て、襟裳岬の先っちょを見てから、県道34号線と国道336号線で広尾町へ入り、道道1037号線の直線道路を行ったり来たりして、そのあと道の駅まわりをして、白樺で昼飯を食い、観光をして宿へ走ったその日のルートを地図で説明した。
 途中何度か、川口が席を外した。戒名が掲げられた会議室へ戻って、俺の行動確認の裏取りのために、えりもまで誰かが飛んでいるか、近くの所轄署に依頼をしているはずだった。

 この部屋に入ってから四時間が過ぎ、休憩を何度かはさみ、世間話を交えながら四度目になる俺の旅行記を話し終えたのは、ガラケーの時刻で十二時半を回り、俺が、松村進というプリン頭を知らないと答えるのに飽きた頃だった。
 「そろそろ昼にしましょうよ。腹減りましたよねぇ、川口さん」
 俺が久々に川口に話を振ると、しかめっ面のまま俺を睨んでいた川口の腹が鳴った。
 俺が、もうどこでも食えるものは嫌だ。何か帯広らしい物を食いたい。と津田に伝えると、帯広署から少し車で走ったところにある中華屋に連れて行かれた。
 川口は弁当があるからと、店の駐車場に停めた車に残った。
 ドアを開けた川口に、俺は車から降りる時に言った。
 「奥さんと仲良いんですね」
 「余計なお世話だ」
 と、川口は俺を睨みつけた。
 俺と津田は向かい合わせで座り、津田が勧める『中華ちらし』を二つ注文した。
 店は四十路前ぐらいの女性とその娘だろうか?若い女の子との二人で回しているようだった。
 「よく来るんですか?」
 「いえ、他店舗には何度か行ったことがあって、ここの店には初めて来ました。中華ちらしは、私もこっちに赴任して来て、初めて知った食べ物なのです」
 「前はどこに?」
 「北見方面の斜里に半年いました。斜里町ご存知ですか?」
 俺は地図を取り出して、オホーツクが五分の四を占めた、下に這いつくばるように斜里町があるページを開けた。有名な天まで続く道がある町だった。
 「やっぱりライダーの方はお好きですよね。東京生まれの私には、道内はどこを走っても異次元ですけれどね」
 「私もそう思いますよ。浮かれボケか北の大地バカになりそうですもん。斜里って知床に近いんですね。あっ、羅臼とウトロってどちらの方が泊まるのにお勧めですか?」
 「すみません。羅臼には、まだ行ったことがないんです」
 「えっ、ウトロの隣やないですか?」
 「よく言われるのですが、管轄外への旅行などは提出書類が煩雑で、ウトロは北見方面斜里の管轄ですが、羅臼はここと同じ釧路方面なのです」
 「釧路?」
 俺は驚いて声を大きくしてしまった。津田がすかさず掌を押さえつけるようにして注意する。
 「ここは帯広ですよね?」
 「はい」
 松村進が誰かに殺された日、俺は釧路に行くか帯広に行くか、雲と相談して決めたのだ。
 「釧路方面は、広尾、新得、帯広、池田、本別、弟子屈、中標津、根室、厚岸、釧路と十の警察署があるんです。羅臼は中標津の管轄になります」
 「へーっ、そんなに広いんや。そして、ウトロと羅臼では縄張りが違う?」
 「そう言った方が、あなたにはわかりやすいかと」
 チクリと嫌味を言うのは忘れない。
 昼時が過ぎたのか、今、店内にいるのは俺たち以外に一人、カウンターの隅に男が座ってビールを飲んでいた。何やら女性店主と訳ありなのか、時折、若い女の子も混ざって話していた。
 「それと、あなたさっき、音更町側と言ったら、一瞬、不思議そうな顔をしましたね」
 俺の表情のごく一瞬の変化を、津田は見逃していなかった。
 「音更もここ帯広署の管轄なのですよ」
 今度は隠すことなく、俺は不思議そうな表情を浮かべた。
 「都会に住んでいると、市町村ごとに警察署があって当然だと思うでしょう。しかし、北海道では違うのです。ここ帯広署が、日本で一番広い管轄区域を持っているのです。あなたが通ってきた幕別町、更別村、中札内村、芽室町、帯広市、それから十勝川を渡って、音更町、士幌町、上士幌町まで」
 「タウシュベツ川橋梁のある?」
 「そうです。すべてが帯広署の管轄です」
 俺は驚きに口をだらしなく開けていた。
 「だから、事故には気を付けて下さいね。都会と違って、交通手段も限られているので、現場から帯広までってなると、かなり面倒臭いですよ」
 まだ少ししか北海道を走っていないが、確かに津田の言うとおりだ。事故には気をつけたいと思った。そして、ふと、疑問が湧いた。
 「襟裳岬はどうなんですか?」
 「えりも町は、札幌方面浦河の管轄です」
 「札幌……、浦河……」
 俺の頭の中は小さなパニックを起こしていた。なんともまぁ、北海道はとんでもなく広いのだと考えさせられた。
 「食べ終わって、署に戻り着く頃には、襟裳岬の宿にあなたが泊まったかどうかの確認はとれていますよ。きっと」
 またサラリと嫌味だ。
 やっと女店主が中華ちらしを運んできた。カウンターの男がこちらを見ていたようだったが、俺と目が合いそうになったので、素知らぬ風で目を逸らした。俺か、津田か、それとも両方がテーブルを挟んで対峙しているのが気になるのか。
 中華ちらしは、白飯の上に、中華丼とは違うトロミのない、もやし炒めに近い野菜炒めがのっていて、その上に紅ショウガがいた。意外だった。もっと何かしらの工夫というか、そんなものが欲しかった。
 「さあ食べましょうか。これが帯広の中華ちらしです」
 俺はいただきますと手を合わせてから、スープに沈んでいたレンゲを手にした。
 味は美味かった。野菜不足を補えて、頭の中的にはいい食べ物だ。しかし、そこまでだった。俺は大阪のわがままの言える中華屋で、野菜炒め丼として、これと似たものをごく普通に食っていたからだった。俺も、この中華ちらしを発明した人と同じ発想を持っていたわけだ。勿論、この野菜炒めの味だからご飯に合うのだろうけれども。
 ついでに思い出した。大阪・中津の店でメニュー化されている、どて丼(牛すじ肉と蒟蒻を味噌で甘辛く煮た、どて焼をご飯の上にのせ葱をちらしたもの)と、どて焼にする前の一度下茹でした牛すじ肉を串にさして、焼き鳥のように塩で焼いたすじ焼は、俺の発明だ。最初、どちらも店の奴らに、「ほんまに美味いんか?」と馬鹿にされた物だった。確かに喰い慣れていないものを、最初に食べるのには勇気がいることだろう。俺だって、東京・日本橋のおでん屋で、おでんの豆腐がご飯にのった『とうめし』を食った時には驚いた。
 そんな関係のないことを思いながら、半分ほど夢中で食べた頃、「美味いですか?」と津田が訊いてきた。
 「美味しいです。これで一つ帯広の見聞が広がりました」
 素直に俺は言った。
 喰い終わってご馳走様を言い、お茶を啜りながら、今夜は屋台にでも行ってみるかと、すでに夜の計画を立てていた。任意の事情聴取で夜遅くまで引っ張ることはない。本当は今、これからだって帰ることが出来るのだ。
 津田が食べ終わったので、店を出ることになった。勿論、会計は別々だ。利益供与にあたる。
 俺が店を出たあとに津田が店を出て扉を閉めた。その途端、店内から堪えていたものを吹き出すような笑い声がした。
 「悪いね、こんななりしてて」
 「いいえ、すみません。嫌な店に連れてきてしまって」
 津田も俺も川口までも、帯広署に戻る車内は静かだった。川口は昼寝をしているところを起こされて、無意識に機嫌が悪かっただけなのかもしれないが。

 津田の言っていたとおり、もう一度俺の旅行記を披露している最中に浦河署から報告があり、襟裳岬の宿から帯広までの俺のアリバイは証明されたようだった。
 俺のバイクは他のと違って、牡鹿の立派なトロフィーのような、Zバーのハンドルが取り付けられている。Nシステムや町中のコンビニなどの防犯カメラででも、ずいぶんと見つけ易かったであろう。カメラの中の画像は見せる必要もなかった。
 「今日のところは、お帰り頂いて構いません」
 ぶっきら棒な物言いだった。まだ寝起きの悪さが続いているのか、それとも、俺に対する捜査が川口の思うようになっていないからか、俺にはわからなかった。
 行きと同じく川口の運転で、帯広署から駅前のホテルへ向かう途中、
 「そうだ、今から言う番号に電話をして頂けませんか」
 助手席の津田が振り返って言った。俺の携帯番号から位置を確認するつもりか。
 「えーっ、俺がおネェちゃんとよろしくやってる時に邪魔するんは、なしですよ」
 そう俺はからかってみた。バックミラー越しの川口は、チラチラと面白くなさそうな視線を、津田と俺に送っていた。
 「まぁそれもありですが……。まだこの街に三泊なさるのですよね。あなたも顔はご存知だと思いますが、松村進と一緒にいた従業員が、この街にまだ滞在しているんですよ。どこで出会うかわかりません。会えば必ず、向こうから吹っ掛けてきます。そんな時にはすぐにその場を離れて下さい。そしてすぐに連絡が欲しいのです。わかりますね」
 津田は真顔で言った。
 俺は、ちょっとおもしろい考えが浮かんだのだが、それを横に置いておいて、津田に無言で頷いてからガラケーを取り出すと、津田の言った番号をプッシュした。津田が手に持っているスマホが震え、画面に俺の番号が映し出されたのを確認してから電話を切った。
 気づくと、路面は濡れたままだが雨は止んでいた。
 ホテルのエントランスでは、川口ではなく津田がドアを開けてくれた。
 「またお話を伺うと思いますので、それまで要らぬ騒ぎに巻き込まれないことを祈っています」
 津田らしい忠告だった。
 「気をつけれよ。あいつは社長の命より、自分の車がおもやみなんだわ」
 川口が窓を開けて半笑いで言った。
 「川口さん」
 津田が川口に強く注意したあと、仕方がないという顔を俺に向けて、
 「兎に角、気をつけて下さい」
 そう言って覆面に乗り込んだ。
 俺は二人の乗った覆面を見送りながら、おもやみ?車?と、川口がからかうように言ったワードが、頭の中で飛び回っていた。
 エレベーターホールで、フロントで聞けばわかるかと、二階のフロントへ向かった。
 フロントには何組かのチェックイン客が並んでいた。俺は素直にその列に並んだ。すると、カメラで見ていたのか、カウンターの横にあるドアから男性従業員が出てきて、列に並んでいる俺のところにやって来て、お客達が並んでいる列から一番離れたカウンターの端に俺を誘導した。
 「獅子王様、お帰りになられていたのですか。何かございましたでしょうか?」
 ご丁寧に、そして小さな声で訊いてきた。その男性従業員の名札の名前、上川と書かれた上には、マネージャーと書かれていた。
 「あっ、マネージャーさん、なんや迷惑かけたみたいで」
 「いえいえ、お帰りになられて何よりです。何か御用がございますか?」
 「はい。まず、借りている傘は、宿泊中は借りっぱなしでもいいのかどうか?」
 「それは、お借ししたままで結構です」
 「もう一つ」
 「はい」
 「おもやみって何ですか?」
 「はっ?おもやみでございますか?」
 「そう、おもやみ。それって北海道の方言なんですかねぇ?」
 「私、長崎生まれでして……。しばらくお待ち下さい」
 俺を残してマネージャーは出てきたドアの中へ消えた。
 おもやみはマネージャーに任せて、俺は車のことを考えた。
 川口の言った「自分の車」とは、坊主頭の車だと推測出来る。あのプリン頭達が乗っていた車が、坊主頭所有の車ということは、大阪ナンバーの車?いや、プリン頭の会社が枚方にあるからといって、坊主頭の車が大阪ナンバーだとは限らない。神戸ナンバーだって、なにわナンバーだって、隣の奈良や京都ナンバーだって可能性はある。現実的に考えれば無しよりの無しだが、高速を使えば姫路ナンバーだって。あっ、滋賀ナンバーだって大津市の南に住んでいれば、一般道を通っても一時間ぐらいで枚方に着く。充分に通勤圏だ。
 「お待たせしました。こちらの者が地元出身でして……。さぁ、村田さん、獅子王様にご説明して差し上げて」
 マネージャーの上川が連れてきたのは、村田という名札を付けた三十代ぐらいの細身の女性だった。着ている制服はフロントマンのものではなく、客室清掃員のものだった。
 「あのう、村田です。よろしくお願いします」
 「こちらこそ、よろしくお願いします。百獣の王の獅子、それの王様で、獅子王です。漫画みたいでしょ。アハハハハッ」
 つられて村田も笑ってくれた。
 「村田さん、おもやみが何なのか、教えて下さい」
 俺はカウンターに両手をついて頭を下げた。
 村田さんが言うには、おもやみとは、北海道だけの言葉ではなく、青森の下北、秋田、山形でも話されている言葉で、意味は「おっくう」「心配」「気が重い」などで使われている言葉で、今の若い人間はあまり使わないのだと言った。
 やっと川口の言ったワードが繋がった。
 俺は充分過ぎるほど、村田さんとマネージャーの上川に礼を言って部屋に戻った。
 部屋は綺麗に清掃されていて、ベッドメイキングも気持ちが良かった。
 デスクの隅に置かれた“本日の客室清掃員”の名前は、村田と書かれていた。もしかしたら違う村田さんかもしれないが、もう一度心の中で、さっき説明をしてくれた村田さんに感謝した。
 冷蔵庫に入ったサッポロクラシックを取り出して、リングプルを引く。もう無糖のカフェオレと甘いミルクティーしか冷蔵庫の中には残っていない。部屋中に響き渡ったプシュ音が、何故だか『スタート』を告げられた気になった。
 俺は、PCを立ち上げ、コンデジからSDカードを取り出してスロットに差し込んだ。新冠の温泉施設を出発した朝からの写真を見返した。我ながら巧く北海道を切り取っていると思えた。どんどん進んでいき、初めて北海道を走っているんだと感じられた景色を過ぎて、エンルム岬を通り、襟裳岬に辿り着いた。こんなことになるなど想像していなかったから、車が写り込んでいる写真はなかったし、風景写真にも人が入り込まないように撮っていたので、ヤツら男女四人の中の誰も写り込んでいなかった。
 段々と、甘くて軽い考えは捨て去らなければならないのだと、俺は思うこととなった。
 このまま犯人が捕まらない限り、俺への警察のマークは続き、俺の気ままな旅は帯広で終わりを迎えることになるのだ。多少の不自由を背負込んだ代わりに、俺は自由を手に入れたのだ。ここで終わらせてなるものか。そう昔の俺も、現在変化を見せている俺も、同じように叫んでいた。
 フル回転で脳味噌が作動しだした。降りかかる火の粉は自分で振り払わなければならない。誰も代わりに振り払ってはくれないのだ。
 PCでこの事件の記事を虱潰しにクリックしていった。津田の言動と捨て台詞のような川口の嫌味な言葉が本当だとすると、坊主頭は、松村の死よりも自分の車のことを心配しているということだ。殺された松村が坊主頭の車に乗って出掛け、松村だけが見つかり坊主頭の車は見つからない。坊主頭は車に何かしらの秘密を隠している。そして今やその車は、坊主頭の“おもやみ”ごとになっているのだ。
 ニュースには、花押会の高峰やセンチュリー産興のことは書かれていなかった。俺の反応を見るためのものだったのだろう。
 俺が犯人を見つけるためには、何故、松村進が殺されたのかがわからなければ、どうにもならない。殺された理由。それしかないのだ。
 すぐに天気予報を調べ、雨雲レーダーを確認した。このまま雨が止むのなら、ビールを飲まずに襟裳岬に足を運び、俺の中に引っ掛かっている何かを確認したかった。確かに何か引っかかっているいるのだ。
 今は止み間らしく、雨雲は次から次へと、広い十勝平野に流れ込んでくるようだった。リングプルを引き上げたことを後悔しなくて良くなった。かわりに、このまま帯広の夜の街を闊歩して、坊主頭への餌を撒くことに決めた。
 うまく坊主頭と出会えれば、色々と手間が省けるのに。そう思いながら、俺は少しぬるくなったサッポロクラシックを一気に胃の中に流し込んだ。
 さて、何を着て行こうか考えた。ロンTにアロハでいいか。上着はいざという時に役に立つ。
 シャワーを浴びながら俺は、夜の帯広の街をどの辺りから攻めればいいかを考えていた。


よろしければ、サポートお願い致します。全て創作活動に、大切に使わせていただきます。そのリポートも読んでいただけたらと思っています。