言葉は時には危ういコミュニケーションツールなのかもしれない
「落ち着いてね、人はそれぞれ違うんだから…」
上記は息子(ASD・ADHD)のお友達からのLINEの返信の言葉です。
SNSなどで納得いかない記事を読んだ後、心が乱れやすい息子です。
そのお友達に気持ちをぶつけます。(ご迷惑をおかけしております)
大人の対応をしてくださるお友達に対し、母としては、ただただ感謝あるのみです。
しかし息子は、なにやらプリプリと怒っています。その理由を聞いてみました。
テキトーにあしらわれたと不満に思ってしまった息子
私からすれば、お友達の返答は完璧のように思えました。
しかし息子としては、共感までされないとしても、まず話をじっくり聞いてもらいたい様子です。
なんでもいいから(できれば共感してほしいですが)具体的な考えを聞かせてほしいのに、いつも同じセリフが返ってくると息子は言いました。
息子の不満を聞いて気づいたこと
息子の不満そうな表情を見つめながら、こう感じました。
世の中が多様性を重んじる傾向が強くなり(素直に良いことだと思います)
「人それぞれ違う」「違っていい」といった言葉もよく使われるようになりました。
これらは理解のある表現である一方で、話を強制終了できる側面も持っているんだなぁ。。。と、初めて感じました。
良いとか悪いとかではありません。
事と次第によっては、角が立たない強制終了の方法として使えるかも?と、ちょっと参考になりました(笑)
しかし私は、流行りの言葉をギャグっぽく言うことはありますが、多用するのはなんだか気が引けます。頑固な婆さんになってきました(笑)
言葉にハートが込められているか、どうかが重要?
息子に対し、いつも同じような返事をされるお友達だそうですが、
それでもとても仲が良いのがわかります。
なぜでしょう?
言葉はもちろん大切なコミュニケーションツールではありますが、
言葉が一番大事ではないように思えます。
言葉以外で感じ取れる相手のハート、私はその目に見えない、耳で聞こえないものこそが一番大事かな?と思います。
そしてたとえ同じ言い回しの言葉でも、そこにハートがあるかないかで価値が随分違ってくるように思います。
これは理想論でしょうか?私は偽善者なのでしょうか?
自分でもその辺は答えが出ません、出そうともしておりません。
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