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麦酒夜話

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うれしい日も悲しい日も悔しい日も、思い出のそばにはいつも黄金色に輝く一杯がありました。 毎回読み切りの不定期連載。今宵、ビールのつまみにエッセイはいかがでしょう。
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記事一覧

【麦酒夜話】第八夜 ブロムレイサウス

【麦酒夜話】第八夜 ブロムレイサウス

 目覚めたら3時だった。陽はまだ遠く、空は薄い紫で覆われている。向こう側で聴き慣れないサイレンの音がする。ここはイギリス・ロンドン近郊ブロムレイサウス。時差ボケの青年は、ホームステイ先へ無事にたどり着けた事実を反芻していた。

 関空からシャルルドゴール空港への長い空の旅の後、ヒースローへ乗り継いだ。到着したのは夕方で、その1時間少しのエールフランスの機中、バゲットが出たことにお国柄を感じ驚いた。

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【麦酒夜話】第七夜 渡せなかった創刊号

【麦酒夜話】第七夜 渡せなかった創刊号

 履歴書は思い切って個性的に。趣味はいっそ「空想」としてしまえ。就職氷河期の最後の世代にとって、5月を過ぎるとヤケクソだ。当時は大学3年の10月に就活が解禁され、4月ごろには大手は内定を出し終わっている。そして6月を最後に求人がガクッと減る…。

 マンションの郵便受けにDMが入っていった。印刷会社の求人で職種にコピーライターとある。とりあえず受けてみるか。肩肘張らず面接に臨み、志望理由も家から近

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【麦酒夜話】第六夜 メコンデルタの誘惑

【麦酒夜話】第六夜 メコンデルタの誘惑

(第5夜 ホーチミンの警告からの続き)
 オップは、翌朝ホテルの前で早くから待っていたようだ。私たちを見つけるなり、早く行こうと声を掛けてくる。ミトーまでの道のりは1時間ほど。高速道路らしい道を、ヘルメットもなく2人乗りで走る。時速は110kmほど出ていた。舗装はされているけれど、ところどころ砂が散らばっている。そのたびに急減速するから生きた心地がしない。こけたら最後。そう何度も心の中で叫んでいた

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【麦酒夜話】第五夜 ホーチミンの警告

【麦酒夜話】第五夜 ホーチミンの警告

 東南アジアらしさが残る最後の国ベトナム。こんなキャッチコピーに惹かれ大学4年の卒業旅行に、友人のTくんとホーチミンへ行くことにした。彼は高校時代の友人で、ロンドン、パリ、上海を旅行した仲だ。本来であればお互いそれなりに予算をかけてヨーロッパにでも行きたかったのだけれど、残念な懐事情で早々に断念。しかし、せっかくなので面白そうな近場の国を探したところ、前述のキャッチコピーに出会った。

 なんでも

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【麦酒夜話】第四夜 駆け出し

【麦酒夜話】第四夜 駆け出し

 15年近く前、一度だけ訪れた中目黒のダイニングバーがある。おしゃれで、味もよく、今でも行きたい店なのだけれど、苦い思い出が蘇り、結局足が向かない。春の終わり、梅雨前の、心地いい日の出来事。新聞広告を見て愕然とした。自分のアイデアがパクられていたのだ。

 パクられたのは3回目だった。よくもこう悪行が横行しているものだ。駆け出しの青年コピーライターにはショックが大きかった。1回目はパクった本人から

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【麦酒夜話】第三夜 飲めなかったワンパイント

【麦酒夜話】第三夜 飲めなかったワンパイント

 文句の多い人は、どこの組織にも一人はいる。クラスにも、バイト先にも、サークルにも。同僚にも一人いた。内務部門のJさんだ。

 会社には締め日というものがあって、経理処理が集中するのだけれど、それがためにJさんは毎月同じように不機嫌になる。こちらが提出した書類を受け取らない、受け取っても一言文句を言う。なぜこんなタイミングなのだ。寝かせていたのではないか。先月も同じ話をした。今月は特にひどいのでは

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【麦酒夜話】第二夜 金沢のおでん

【麦酒夜話】第二夜 金沢のおでん

 婚前旅行は、親には内緒。そんな奥ゆかしい奥さんが彼女だった最後の夏、2人で金沢へ行った。楽しみは、できて間もない21世紀美術館。中でもレアンドロ・エルリッヒのスイミング・プールは、雑誌やテレビで何度も見ており、そこで写真を撮ることが、旅の目的になっていた。到着したその足で向かい、アニッシュ・カプーアのL'Origine du mondeに圧倒された。兼六園、浅野川、ひがし茶屋町、近江町市場。美味

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【麦酒夜話】第一夜 春の鮨

【麦酒夜話】第一夜 春の鮨

 春から部署を任されることになった。若かったからか謙遜もなく、新年度は楽しみでしかない。現場の業務も大部分を部下に任せられるようになり、もっぱら新規受注のことだけに集中しようと思っていた。今よりもエネルギッシュで、怖いもの知らず。喧嘩っ早く、疲れもなかった。そんな出鼻をまさかひとりの新入社員に挫かれようとは。

専門卒の20歳で入社してきた彼女は、前任の部署長が面接で採用した、いわば置き土産だ。ケ

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