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エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日

1. 1983年4月26日に日本を発って, 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後, 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった。以下リンク先 note *2 の第1章で パレスチナ/イスラエル問題概観, 第2章でエルサレムで撮った写真, 第3章で最初の2日間の見聞録, 第4章はパレスチナ系ヨルダン人のバンドの曲紹介。

その時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, note *-1 にある1982年のイスラエルのレバノン侵攻, そしてベイルートのパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)における虐殺事件(因みにボブ・ディランはその直後に恥知らずなイスラエル支持ソングを書いてリリースしている)。 

なお, パレスチナ/イスラエルの旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダ死海に行った(note *4)。

日本を発って以降, パレスチナ/イスラエルの旅に入る前に関しては, 以下リンク先 note *1 の第3章 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, および 第2章 ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン に。

*−1

この一文は, 今も胸くそがわるくなるボブ・ディランの恥知らずな 1983年リリースのイスラエル支持ソングについての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。

*1

*2

*3

*4

さて, パレスチナ/イスラエルの旅の6日目は, エルサレムの東と西を巡った1日。

2. 写真 5枚 〜 東エルサレムのエルサレム旧市街, 西エルサレムのヤド・ヴァシェム(「ホロコースト記念館」)

エルサレムはもともと, 1947年の「国連パレスチナ分割案」(同案がパレスチナのアラブ系住民=パレスチナ人側にとっていかに不当なものであったかについては前章のリンク *2 note 第1章に詳述)においてはアラブ側の国家にもユダヤ側の国家にも属さず, 国連を施政権者とした信託統治領となることが予定されていた。エルサレムの地位に関する限り, 筆者個人はそうなればよかったと思っているが, 実際はそうならなかった。

東エルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラム教のそれぞれの聖地がある旧市街を含み, エルサレムのうち1948年イスラエル「建国」に伴う第一次中東戦争の終結時の停戦ラインの東側に当たる地域を指す。停戦ラインの西側が西エルサレム。

上記の第一次中東戦争後, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区(West Bank)については, 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻の前まではヨルダンが占領・統治・併合していたのだが, これは国際社会の殆どから公式な承認を得られなかった。1967年6月以降はイスラエルが同地区を占領しているが, 同年11月に採択された国連安保理決議242号がイスラエルの同年6月の軍事侵攻による占領地からの撤退を要求しており, 以降もこの決議を確認する決議が為されるなど, イスラエルによる占領の正当性は認められていない。

因みにヨルダンは1994年に締結したイスラエル・ヨルダン平和条約において, 第一次中東戦争終結後 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻の前までの間 占領・統治し自国に併合していた東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の領有に関してその権利を放棄した。しかし, 東エルサレムに関しては, パレスチナ自治政府が正式にパレスチナの国家が成立した後の同国の首都になるものと主張している(ヨルダン川西岸地区全体が同国に編入されるものと想定)。

一方, 西エルサレムについては第一次中東戦争によってイスラエルが占領, 統治。この西エルサレムに対するイスラエルの主権の主張に関しては, 東エルサレムに対するものと比べれば, その実効支配が既成事実として広く受け入れられている傾向にあると言える。しかし法的な承認は保留され, 曖昧なままである。

なお, 上記の通り, 1967年6月のイスラエルの軍事侵攻により東西エルサレムともイスラエルの統治下に入り, 1980年にはイスラエルが西エルサレムと東エルサレムの併合を宣言, 併合した統一エルサレムを同国の首都としたが, 国際社会の殆どはこれを認めていない(例外はアメリカ合州国の前政権; トランプ政権は 2017年12月にエルサレムをイスラエルの首都として承認し, 国際社会から非難を浴びた)。

以下の 5枚の写真は全て, 1983年10月3日 に筆者撮影。

1) 東エルサレム, エルサレム旧市街にて。手前はユダヤ教の聖地「嘆きの壁」。背後に見えるのはイスラム教の聖地「岩のドーム」。中央から右に向かって歩いているのは, 1967年6月の軍事侵攻以降, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を占領, 同年11月の国連安保理決議242号の撤退要求などに抗って(2021年の今に至るまで既に半世紀以上, この写真の撮影時点では16年間にわたり)軍事占領を続けるイスラエル軍の兵士たち。

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3) ダマスカス門。エルサレム旧市街の複数ある城門のなかで最も美しいとされる門。城内のアラブ人地区のスーク(市場)の端にあたる。かつてはこの門から城外へ出る街道が(現在のシリアの首都)ダマスカスに通じていたということで, それが「ダマスカス門」の名前の由来。紀元2世紀のローマ時代の様式の名残を留めるということだが(パレスチナだけでなくシリアでもヨルダンでもそうだが, ローマ帝国に関係する建物・遺跡などが各地で見られる; やはりローマの栄華は相当なものだった), 筆者がこの写真を撮った1983年当時はもちろん, 現在も見られるこの姿は, オスマン帝国支配下の時代, 1537年に建造されたダマスカス門の姿。

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5) 西エルサレムにあるヤド・ヴァシェム(Yad Vashem; ヤドが「記念碑」, ヴァが「と」つまり and, シェムが「名前」; 旧約聖書の一節から取られている; 展示物の中身に即して言えば ホロコースト記念館 もしくは ホロコースト博物館)にて。ここは第二次世界大戦・戦中及び戦前のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の犠牲者たちを追悼するため, 1953年にクネセト(イスラエル国会)の決議に基づいて設置されたイスラエルの国立記念館。

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当時どんなことを感じていたか, については次章にて。 

3. パレスチナ/イスラエル見聞録 〜 1983年10月3日

以下は当日の旅日記から, 日記を撮った写真 4枚, 及び日記からの引用。

旅日記 1/4

イスラエリの Post Office よりハガキ投函。
入るとき 手荷物チェックがあった。ダマスカスゲイトから近くにアラブ側 Post Office もあるが, 占領されていることを明確にするため イスラエリ にした。

「イスラエリ」は英語の Israeli(形容詞「イスラエルの」, 名詞では「イスラエル人」)。

バスに乗って Yad Vashem へ。わりと手前に 車や入場者をチェックするところあり。オレは 手荷物チェックを受けた。

Yad Vashem は, 前章に載せた写真 5) のところに書いた通り, 西エルサレムにある ホロコースト記念館(もしくは ホロコースト博物館)。Yad が「記念碑」, Va が「と」(つまり and), そして shem は「名前」の意(この記念館の名称そのものは 旧約聖書の一節から取られている)。第二次世界大戦・戦中及び戦前のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の犠牲者たちを追悼するため, 1953年にクネセト(イスラエル国会)の決議に基づいて設置された, イスラエルの国立記念館。

museum だけかと思ったら, Library, Lecture Hall, Art Museum, Historical Museum, ワルシャワゲットー Square その他 いろいろあった。すなわち Holocaust Memorial 。遠くから見てもわかるほど 立派な建物。前に イスラエルの国旗が たくさん はためいている。

ワルシャワゲットー」については, 本 note 第6章及び第7章 にて。 

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旅日記 2/4

Historical Museum に入った。ナチの歴史から「イスラエル」への「帰還」まで。

(注)20世紀に作られた国「イスラエルは, 1948年5月以前は存在しない国。

(本章の後段に掲載の 旅日記 4/4 にある「思い出し記」後半の記述によれば「Yad Vashem Historical Museum 。『イスラエル』への『帰還』についてはごく簡単。数枚の写真と, 終戦('45)から建国('48)までの間, イギリスはユダヤ人が パレスチナに帰ること(enter to Palestine とあった)を拒絶したが, 非合法の帰還をふせげなかった, という説明。それでおわる」, これについては, 当時のシオニストたちによるイギリスに対するテロ活動に関して, 旅日記 4/4 のところで記述。)

引き続き, 旅日記 2/4 からの引用。 

たくさんの資料, 遺品がある。スライドも上映してた。600万人のユダヤ人が殺されたという。
決して くり返してはならない歴史だ。しかし, 正直言って どうも素直な気持ちで見れなかった。

決して くり返してはならない」つまり "Never Again" に関しては, 本 note 第8章 にも。

これが 例えば ヨーロッパで見たのなら 違うだろう。事実 ダッハオでは 強く心をうたれた。 

ダッハオ」(ダッハウ, ナチス・ドイツが最初に作った強制収容所, ドイツ [筆者が訪ねた当時は西ドイツ] にその跡地・博物館がある)に関しては, 本 note 次章(第4章)にて。

しかし, ここパレスチナの地では .....

パレスチナ/イスラエル問題 の概観は, 本 note 第10章 にて(note リンク)。

中に ナチによって ユダヤ人の店が閉鎖されている写真があった。これは皮肉だ。現在 イスラエルは, これと全く同じことを WEST BANK でしてる。たとえば ヘブロンで。

イスラエルは, これと全く同じことを WEST BANK でしてる」, これは後日, 実際に目撃した(「WEST BANK」は東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区のこと; イスラエルが1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月採択の国連安保理決議242号や同決議を確認する後年の決議などに違反して 2021年の今現在も軍事占領中)。

最後に, ユダヤ人は, 自分を投げうって ユダヤ人を救おうとした人を 決して忘れない, その人たちは the Honor of Mankind をも救ったのだ とあった。

因みにあの杉原千畝(1900年1月1日生まれ, 1986年7月31日他界)は, 1985年にこの Yad Vashem から「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られて顕彰されており, したがって, 筆者がここを訪れた1983年の段階では未顕彰だった。

皮肉なことに, 

現在のイスラエルは, 過去のユダヤ人の歴史を考えれば考えるほど, the Honor of Mankind を 地に落としているのではないか。

これについては 本 note 第6章〜第12章 にて。

たくさんの観光客が来ていた。彼らは, ユダヤ人は受難の歴史をのりこえてきた, とそれだけを思って この地を去るのだろうか
出たとき, Yad Vashem を発つ, ソルジャーばかり乗ったバスを見た。
ユダヤ人の歴史があまりに悲惨だっただけに, 構造的には単純なパレスチナ問題が むずかしくなってしまっている

構造的には単純なパレスチナ問題」に関しては, 本 note 第10章 にて(note リンク)。

ユダヤ人とは何か? このことはぜひ知らねばなるまい。

本 note 第12章 はこれ, すなわち ユダヤ人とは何か? に関連する件。

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旅日記 3/4

バスで Jaffa Gate 前へもどり, 城壁内の旧市街へ。何枚か写真とった。嘆きの壁もとったが, そのときは残念なことにお祈りの人が少なかった。

写真は 前章に掲載。

アルメニア人地区を歩いた。

日記の中にある「師匠」とは, シリア・ダマスカス note から何回か登場している日本人バックパッカーでプロのカメラマン(トルコ・イスタンブールで同宿, ダマスカス滞在中に偶然再会してそこからヨルダンをともに旅し, パレスチナ/イスラエルの旅の最初の6日間, この日まで同宿; この日はぼぼ別行動だった)。

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明日は「ハイファに還って」の予定。

ハイファに還って」とあるが, ハイファに行くのはもちろん初めて。『ハイファに戻って』『太陽の男たち』などで知られるパレスチナ人作家で且つ PFLPスポークスマンだった 故 ガッサン・カナファーニー(1972年にイスラエルにより暗殺された)の著作を捩った(文字った)もの。当時, 筆者が日本の雑誌などで目にする彼の著作『ハイファに戻って』は, 「ハイファに還って」と表記されているケースがあり, 筆者はこちらの方で覚えていた。

ガッサーン・カナファーニー(1936年4月9日 イギリス委任統治下のパレスチナ生まれ, 1972年7月8日 レバノンの首都ベイルートで自身の姪とともにイスラエルの諜報機関モサドにより暗殺される) 〜 以下は, 彼の死去49周年に際しての ガッサーン・カナファーニー に関するインスタグラム投稿で, 一つ目は動画と下記テキスト(ユダヤ系アメリカ人のイスラエルの占領やアパルトヘイト政策に反対する団体 Jewish Voice for Peace によるもの), 二つ目は写真4枚と下記テキスト(主としてパレスチナ・ガザ地区に住むパレスチナ人によるライター・ジャーナリストの団体 We Are Not Numbers によるもの)。

Jewish Voice for Peace (2021年7月8日, 現地時間)

This 1970 interview reminds us of today’s Palestinians asserting their truths in Western media, even when journalists try to twist their words into false narratives of a “both-sides” “conflict” that Palestinians can “solve” by surrendering their struggle for liberation.
Ghassan Kanafani, a Palestinian resistance writer and revolutionary, was murdered on this day in 1972 by Mossad, Israel’s national intelligence agency. But his spirit clearly lives on in the Palestinian resistance writers, artists, and scholars of today. You can kill a revolutionary, but you can’t kill a revolution.
“To us, to liberate our country, to have dignity, to have respect, to have our mere human rights, is something as essential as life itself.” - Ghassan Kanafani
Interview with Richard Carleton in Beirut in 1970

We Are Not Numbers (2021年7月8日, 現地時間)

Writing is a way of resistance, and the #Palestinian people are in huge need of resistance against the occupier, especially that they are trying to steal the culture. Palestinian resistance literature covers fiction, film, theater, poetry, visual art and music, but does not just depict the numerous types of political resistance throughout history. It was first found in Palestine by the Palestinian writer, Ghassan Kanafani.
Ghassan Kanafani was born on 9 April 1936, Acre, Palestine. In Jaffa, he enrolled at the Frères School. He and his family were forced to flee Jaffa when it was conquered by Zionist forces in 1948, and they took refuge in Lebanon. The family subsequently moved to Syria and lived in Damascus. His life in exile was hard, he worked for a printing press, distributed newspapers, and worked in restaurants, yet his hard-living circumstances never stopped him from continuing his learning journey until he got a job as an art teacher in UNRWA schools in Damascus. After obtaining his secondary school certificate, Kanafani joined his sister in Kuwait in 1956 where he worked as an art and athletics teacher. He also wrote for the weekly magazine; al-Fajr, and in 1957, he published his first story, “A New Sun.”
Kanafani’s writings were translated into more than sixty languages, and many of his novels were turned into movies. He also won international prizes such as his first novel Men in the Sun which was adapted into a feature film entitled 'The Deceived' in 1973. The film won the Golden Prize at the Carthage Festival for Arab and African cinema in 1973. Also, he was a talented painter.
Kanafani was assassinated on July 8, 1972, in Beirut. The Israeli Mossad had planted an explosive charge in his automobile, killing him and his niece, Lamis.
One of his most popular sayings: “The Palestinian cause is not a cause for Palestinians only, but a cause for every revolutionary, wherever he is, as a cause of the exploited and oppressed masses in our era.”
#GhassanKanafani #Palestinians #Palestine #Literature #Novels #Assassination #Occuaption #Stop #Oppress #Revolution #Cause #PalestinianCause #Kanafani #Freedom #FreePalestine

以下, 

話を, 1983年10月3日 の旅日記に戻す。

旅日記 4/4

Yad Vashem Historical Museum 。「イスラエル」への「帰還」についてはごく簡単。数枚の写真と, 終戦('45)から建国('48)までの間, イギリスはユダヤ人が パレスチナに帰ること(enter to Palestine とあった)を拒絶したが, 非合法の帰還をふせげなかった, という説明。それでおわる。テルアビブには ディアスポラの museum があるとのことだが, シオニズムの museum はないものか? あればぜひ見たいのだが。

「イスラエル」への「帰還」とあるが, 20世紀に作られた国「イスラエルは, 1948年5月以前は存在しない国。

なお, 「イギリスは ユダヤ人が パレスチナに帰ること(enter to Palestine とあった)を拒絶したが, 非合法の帰還をふせげなかった, という説明」について, 当時のシオニストたちが, パレスチナ人に対してだけでなく, イギリスに対してもテロ活動を行なっていたことに関連し, 後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギン(מנחם בגין‎, Menachem Begin; 1913年8月16日生まれ, 1992年3月9日他界)のことを, 以下の旅日記 当該頁の写真の下に, 書いておきたい。

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メナヘム・ベギンは, 1977年6月20日から1983年10月10日まで イスラエル首相を務めた人物 である。つまり筆者のパレスチナ/イスラエルの旅の途中の時期まで, 彼はイスラエルの首相だった。

メナヘム・ベギンは, ロシア領ブリスク(現ベラルーシ領ブレスト)生まれ, 同地は1919年から1939年にかけてはポーランド領, 1939年からソ連が占領。ベギン自身は1942年のソ連脱出後にユダヤ人の非公然武装組織イルグンに参加し1947年頃にはそのリーダーになっている。ベギンが参加していたイルグンは, 当時パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)に駐在していたイギリス軍司令部があったエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆破(1946年7月, 91名死亡)といったテロ活動を行なったが, さらにベギンがリーダーとなって以降のイルグンは, 1948年5月のイスラエルによる一方的な「建国」の宣言の直前, 同年4月のパレスチナのデイル・ヤシーン村におけるパレスチナ人村民(アラブ系住民)虐殺(犠牲者数は定まっていないが, 少なくとも107人以上が殺されたとされる)などのテロも行なっている。

これらは歴とした事実, 当然ながら歴史的な事実と認定されている事件なのだが, 要するに当時のパレスチナ駐在中のイギリス人や住民であるパレスチナ人(パレスチナに住んでいたアラブ系住民)などに対するテロを行なった, 文字通りのテロリストであった男が, 後にイスラエルの首相になっているということ。ウィキペディアによればベギンは「パレスチナ人は2本足で歩く野獣である」と公言していたとか。(首相辞任の前年)1982年のレバノン侵攻時もイスラエルの首相はベギン

因みにイスラエルによる1982年のレバノン侵攻といえば,

さて, 次章では, 本章で 西エルサレムにある ホロコースト記念館(もしくは ホロコースト博物館)である Yad Vashem を訪ねた時のことを書いたことに因み, その3ヶ月半ほど前, 同じ1983年の6月に, ドイツ(当時は西ドイツ)にあるナチス・ドイツの最初の強制収容所ダッハウの跡地及び博物館を訪ねた時のことを載せる(note リンク等)。

4. ダッハウ強制収容所跡(ドイツ)

前章で 西エルサレムにある ホロコースト記念館(もしくは ホロコースト博物館)である Yad Vashem を訪ねた時のことを書いたことに因み, その3ヶ月半ほど前, 同じ1983年の6月に, ドイツ(当時は西ドイツ)にあるナチス・ドイツの最初の強制収容所ダッハウの跡地及び博物館を訪ねた時のことについて。

上掲リンク先 note より。

ダッハウ強制収容所は, ナチス・ドイツが 1933年3月にバイエルン州ダッハウに設置した強制収容所。ナチスによる強制収容所としてはブランデンブルク州のオラニエンブルクに設置されたオラニエンブルク強制収容所と共に最も古い収容所であり, 後に次々と創設されたナチスの強制収容所のモデルとなったものとされている。
オラニエンブルク強制収容所は, 1933年2月27日の国会議事堂放火事件の犯人として逮捕されたドイツ共産党員を収容するための施設として, 運用が開始された(因みにアドルフ・ヒトラーがドイツの首相となったのは 1933年1月30日)。当時の収容所においては人種を理由とした収容はほぼ無く, 被収容者の大半はドイツ共産党員ドイツ社会民主党員など「左翼」の政治犯であり, 被収容者の数も後の多くのナチス強制収容所と比較するとかなり少なく, 被収容者の扱いも「比較すると劣悪ではない」レベルだったという(この収容所は設置2年後の1935年3月に正規の収容所としての役割を終えることが決定され, その後には「補助」収容所へと格下げ, 更に2年余り後, 1937年7月には「補助」収容所としての役割も終えている)。
ダッハウ強制収容所においては, 初期の被収容者はドイツ共産党員, ドイツ社会民主党員, そして労働組合員, ロマ(「ジプシー」), 同性愛者, そのほかに犯罪の常習犯などで占められていた(1933年3月23日にダッハウ強制収容所の最初の収容者として収容された60人は共産党員などの政治犯だった)。それが後にナチスによるユダヤ人に対する弾圧の激化と共にユダヤ人の被収容者の数が増えることとなり, 1945年4月29日の「解放」以前にナチス・ドイツが30以上の国々から逮捕・連行し同収容所に収容した約20万人の内, 1/3近くはユダヤ人であったとされている。

5. 「最初, 彼らは共産主義者たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった, 何故なら, 私は共産主義者じゃなかったから 〜 〜 彼らは, ユダヤ人たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった, 何故なら, 私はユダヤ人じゃなかったから。そして彼らは, 私のところにやって来た, しかしそのとき, 私の為に声を上げてくれる人は, 一人も残っていなかった」

以下にリンクを付すヴィデオは, Martin Niemöller (Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller, January 14, 1892 – March 6, 1984; a German theologian and Lutheran pastor) が残した言葉(に由来する詩)を紹介したもの。

Martin Niemöller は当初「反共」主義者でヒトラーの隆盛を支持していたが, 後にヒトラーへの幻想を悟り, 反旗を翻すようになる。彼は1937年に逮捕され, ザクセンハウゼン強制収容所(1935年に正規の収容所としての役割を終え1937年に「補助」収容所としての役割も終えたオラニエンブルク強制収容所 [前章にて言及] の東側に 1936年7月より設置されていた強制収容所が ザクセンハウゼン強制収容所)と ダッハウ強制収容所 に収容された。その後, 不幸中の幸いとして殺害されるには至らず, 1945年に解放されている。

オラニエンブルク強制収容所」と「ダッハウ強制収容所」については, 前章を参照されたい。

以下は,  Martin Niemöller が残した言葉(に由来する詩)を紹介したヴィデオ。

First they came for the communists, and I did not speak out - because I was not a communist;
Then they came for the socialists, and I did not speak out - because I was not a socialist;
Then they came for the trade unionists, and I did not speak out - because I was not a trade unionist;
Then they came for the Jews, and I did not speak out - because I was not a Jew;
Then they came for me - and there was no one left to speak out for me.

(訳さずとも理解しやすい内容ではあるが, 日本語に訳すなら, おおよそ次のような趣旨, 中身になるだろう。)

最初, 彼らは共産主義者たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった。何故なら, 私は共産主義者じゃなかったから。
その後, 彼らは社会主義者たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった。何故なら, 私は社会主義者じゃなかったから。
そして, 彼らは労働組合員たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった。何故なら, 私は組合員じゃなかったから。
次に彼らは, ユダヤ人たちのところにやって来た, しかし私は声を上げなかった。何故なら, 私はユダヤ人じゃなかったから。
そして彼らは, 私のところにやって来た。しかしそのとき, 私の為に声を上げてくれる人は, 一人も残っていなかった。

* Martin Niemöller についての日本語版ウィキペディア。

以下は, 上掲ウィキペディアの中の「2 第2次世界大戦後のニーメラー」> 「2.3 平和主義活動家としてのニーメラー」より転載。

1960年以降、キリスト教とユダヤ教に関する和解の必要性が語られ、ドイツ連邦共和国とイスラエル国家の国交樹立のために、ニーメラーも協力した。著名な教会指導者としてニーメラーが加わったならば、西ドイツの対イスラエル外交において大きな働きをすると思われたからであった。告白教会での経験と西ドイツ再軍備への反対者であるために、イスラエルとの国交樹立においてふさわしい人物としてニーメラーが浮上したのであった。1963年、ハイデルベルク大学の旧約聖書学教授ロルフ・レントロフは、西ドイツとイスラエルの間で意見交換する必要性を訴えるために、ボンのドイツ連邦議会に一緒に行くことをニーメラーに求めた。これに対して、ニーメラー自身はアラブ側の立場を考慮して、イスラエル問題にこれ以上深く立ち入れないとレントロフに答えた。キリスト者としての責任に裏打ちされたレントロフと他の神学者たちのイスラエル問題への取り組みであったが、ニーメラーは彼らとは行動を共にすることはなかった。「イスラエル国家との関係をどの程度まで進めるかどうかは、私にとって今でも分からないと」ニーメラーは書き記していた。

上で紹介した彼の言葉(に由来する詩)について。

Martin Niemöller, Wikipedia 英語版(日本語版ウィキペディアの掲載内容はこれの訳という関係になっておらず, 例えば彼の戦後の活動・言動については日本語版の方がより詳述されている)。

6. ワルシャワ・ゲットー蜂起, アウシュヴィッツ から、 パレスチナ へ

本 note 第3章「パレスチナ/イスラエル見聞録 〜 1983年10月3日」に, 同日, 西エルサレムにある ホロコースト記念館Yad Vashem を訪れた時のことを書いており, その 旅日記 1/4 からの引用の一部に, 

museum だけかと思ったら, Library, Lecture Hall, Art Museum, Historical Museum, ワルシャワゲットー Square その他 いろいろあった。すなわち Holocaust Memorial 。遠くから見てもわかるほど 立派な建物。前に イスラエルの国旗が たくさん はためいている。

が ある。そこで, 「ワルシャワゲットー」に関して。

次章はさらに, ワルシャワ・ゲットー蜂起や, ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)を生き抜いたユダヤ人の両親のもと生まれたユダヤ系アメリカ人学者による, パレスチナ/イスラエル問題に関わる言葉について。

7. ワルシャワ・ゲットー蜂起の生存者(両親), ホロコーストの生存者(父がアウシュビッツ強制収容所の生存者, 母がマイダネク強制収容所の生存者)のもとに生まれたユダヤ系アメリカ人政治学者ノーマン・フィンケルスタインの, イスラエルによるパレスチナ人弾圧に対する激しい怒り

以下は, 前章にリンクを付した筆者の note 「ワルシャワ・ゲットー蜂起, アウシュヴィッツ から、 パレスチナ へ」の第3章 ワルシャワ・ゲットー蜂起, そしてアウシュビッツ強制収容所・マイダネク強制収容所の生存者である両親のもとに生まれた, ユダヤ系アメリカ人政治学者の, イスラエルによるパレスチナ人弾圧に対する激しい怒り からの転載。

最初に一点、書いておきたいのだが、冒頭の章で 1940年代当時のナチス・ドイツ支配下のユダヤ人隔離地域であったゲットーについての記述をした際、ゲットー内に強制的に住まわされたユダヤ人たちは、ゲットーの域外に出たくても、外に出ることが「絶対的に」必要であるということを証明できた場合にのみ通行許可証を与えられて出入り口を通過することができたという有り様であったということを書いたのだが、例えば その点、現在イスラエルによって軍事封鎖されたパレスチナ・ガザ地区や、ヨルダン川西岸地区でパレスチナ人の移動を繰り返し繰り返し妨げている,「占領」軍であるイスラエル軍がパレスチナ人の出入りを厳しくコントロールする為にイスラエル側が設置している無数のチェック・ポイントの存在を, 想起させるものがある。ガザ地区はまさしく「言わば陸の孤島であり屋根の無い巨大な監獄」であって、東エルサレム並びにその他のヨルダン川西岸地区内のパレスチナ人の街も, 居住民(パレスチナ人)に対するイスラエル側の非人道的行為の深刻さについては, 似たり寄ったりの有り様である。
さて、最後に、ユダヤ系アメリカ人の政治学者・作家で、反シオニストの活動家でもあるノーマン・フィンケルスタイン(Norman Finkelstein, 1953年ニューヨーク生まれ)の言葉(ヴィデオ)を掲載する。これは筆者のこれまでのパレスチナ/イスラエル問題にかかわる note 投稿の中で複数回紹介しているものだが、繰り返し繰り返し取り上げる価値があり、また今日の note 投稿テーマに関わって相応しいので、今日ここであらためて紹介することにする。
このヴィデオの中で本人が(ある意味, 止むに止まれず)語っている通り、ノーマン・フィンケルスタインの両親は共にナチス・ドイツが設置したワルシャワ市内のユダヤ人隔離地域であった「ワルシャワ・ゲットー」、そして "Warsaw Ghetto Uprising", すなわち今日の本 note 投稿で取り上げた, ユダヤ人がナチスに対して絶望的な蜂起をした「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の生存者で、母親は更にナチス・ドイツがポーランドに建設したマイダネク強制収容所の生存者でもあって、父親は更にアウシュヴィッツ強制収容所の生存者でもある。
以下のヴィデオで聴くことができるのは(英語、英語字幕付き)、その彼が、(反)ナチス、(反)ホロコースト等に言及してイスラエルをひたすら「擁護」する人たち、そんな特にイスラエル人もしくはユダヤ人に向けて、同じユダヤ人(ユダヤ系アメリカ人)として語った言葉である。

引き続き次章でも, 反シオニストでイスラエルのアパルトヘイト政策に反対するユダヤ人の主張を掲載するが, 彼(ギデオン・レヴィ)は, ユダヤ系アメリカ人であるノーマン・フィンケルスタインと違い, イスラエル人。イスラエルには少数派としてアラブ系=パレスチナ人の市民も住むが, ギデオン・レヴィはイスラエルの多数派市民に当たるユダヤ人。

8. Go to Gaza and Cry 'Never Again' 〜 イスラエル人(ユダヤ人)のジャーナリスト兼作家ギデオン・レヴィ

以下は, イスラエル人(ユダヤ人)のジャーナリスト兼作家ギデオン・レヴィによる, ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)とイスラエルによるパレスチナの占領, パレスチナ人に対する弾圧についてのオピニオン記事。

ギデオン・レヴィは, 1953年にドイツ系ユダヤ人の子としてテルアヴィヴ(Tel Aviv)に生まれた, イスラエル生まれ・イスラエル育ちのジャーナリスト兼作家。Haaretz はイスラエルのメディア。

Opinion | Go to Gaza and Cry ‘Never Again’ 〜 Israeli journalist and author, Gideon Levy (Haaretz, January 23, 2020)

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9. You cannot victimize someone else just because you yourself were a victim once 〜 エルサレム生まれのパレスチナ系アメリカ人学者エドワード・サイード

パレスチナ・エルサレム生まれのパレスチナ系アメリカ人で文学・比較文学研究者であった 故 エドワード・サイード(Edward Said, 1935年11月1日「イギリス委任統治領パレスチナ」エルサレム生まれ, 2003年9月24日ニューヨークにて死去; 著書「オリエンタリズム」でポストコロニアル理論を確立した学者として世界的に著名)が語った言葉, 「あなた方自身が かつて 犠牲者だったという理由で, 他の誰かを犠牲にし続けることは出来ない」。

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以下は, エドワード・サイードが語った言葉に関する, IMEU (The Institute for Middle East Understanding; "an independent non-profit organization that provides journalists with quick access to information about Palestine and the Palestinians, as well as expert sources, both in the United States and in the Middle East", *1) によるインスタグラム投稿(2020年9月, サイードの死去17周年に際してのもの)。

Today marked 17 years since Edward Said's death. Here's what the Palestinian scholar had to say about the erasure of Palestinians and their lives and society before Israel’s ethnic cleansing.

*1

引き続き, 本 note はあと 3章(その後で音楽!)。

10. パレスチナ/イスラエル問題

以下の note 第1章 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 「ナクバ」 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年「建国」)支援のもとで にて, パレスチナ/イスラエル問題を概観。

11. 2021年のいま 白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化 Ethnic Cleansing の行為を行なうイスラエル

以下の note 第4章 2021年, パレスチナ人に対する民族浄化 Ethnic Cleansing に邁進するアパルトヘイト国家イスラエル にて, ごく最近起きた事例(イスラエルが1967年6月以来 同年11月の国連安保理決議242号等に違反しながら既に半世紀以上の軍事占領を続ける占領地において, 国際法違反のイスラエル・ユダヤ人違法入植者たちが占領軍であるイスラエル軍の兵士たちの支援を受けながら, パレスチナ人住民たちの家屋や車・家畜などを攻撃し, またパレスチナ人の子供に重傷を負わせた事件)を取り上げている。

12. 南アフリカの白人(アフリカーナー)のユダヤ教への改宗とイスラエルの違法入植地(パレスチナ被占領地内)への移住

本 note 第3章「パレスチナ/イスラエル見聞録 〜 1983年10月3日」に掲載した 旅日記 2/4 の最後のくだり「ユダヤ人とは何か?」に関連して, 備忘録的に以下の記事(イスラエルのメディア Haaretz, 2021年9月30日付)や関連するツイートを載せておく。

なお, Afrikanerアフリカーナー)は, アフリカ南部(南アフリカ共和国やナミビア)に居住する白人のうち, 17世紀に南アフリカのケープタウンに移住したオランダ人の他, フランスやドイツ系のプロテスタントたちの子孫をさす。主な宗教は改革派(カルヴァン派)に属するオランダ改革派教会とのこと。ウィキペディアによれば, 南アフリカの「アパルトヘイト時代の厳密な定義では, オランダ系(同化したユグノーなども含まれる)であること, アフリカーンス語を第一言語とすること, オランダ改革派教会の信徒であること, この三つをみたすことが『アフリカーナー』の条件であった」(「アフリカーンス語」とはオランダ語を基礎にしてフランス語や現地の言語等を融合して形成されたゲルマン系言語)。

Torah(トーラー)は, ユダヤ教の聖書(キリスト教でいう「旧約聖書」と内容は同一だが書簡の並び順が異なる)における最初の「モーセ五書」のこと(それに関する注釈を加えてユダヤ教の教え全体を指す場合もあるとのこと)。

Judaism ユダヤ教

以下の記事が取り上げているのは, なんと, 南アフリカの白人アフリカーナー たちが, ユダヤ教 に改宗して イスラエルに移住し, その後その多くのケースにおいて, West Bank settlements, つまり, イスラエルが1967年6月の軍事侵攻以来 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の国連安保理決議に違反しながら既に半世紀以上の軍事占領を続ける占領地(パレスチナ人たちが住むヨルダン川西岸地区 West Bank)の中に建設し続けている国際法違反の入植地に住みついているという, 驚くべき現象。

'Cleansed by the Torah': Why These Afrikaners Converted to Judaism and Moved to Israel
From a former Pentecostal pastor to entire families, a growing number of Afrikaners are converting to Orthodox Judaism and swapping South Africa for Israeland, in many cases, West Bank settlements

以下, ツイート 8点。因みに 1) の IfNotNow はユダヤ系アメリカ人の反シオニストでイスラエルの占領に反対する若い世代の人たちの団体。

5) の一連のツイートにも注目。例えば, 5)-(4) によれば, 一方で 同じアフリカでもウガンダからの「ユダヤ人」が, イスラエルへの移住を認められなかった。

1)

2)

3)

4)

5)-(1)

5)-(2)

5)-(3)

5)-(4)

13. Hears and Bones 

Hearts and Bones 〜 the title track from Paul Simon's sixth solo studio album, released on November 4, 1983

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部(最初のヴァース)のみの掲載に改めました。歌詞・全編に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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One and one-half wandering Jews
Free to wander wherever they choose
Are traveling together
In the Sangre de Christo
The Blood of Christ Mountains
Of New Mexico .. ♫ ♫ ♫

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