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ナブルスの大学を再訪(被占領地パレスチナ) 〜 1983年10月15日

タイトル写真は, 1983年10月13日のナブルスの街。滞在していたエルサレム(旧市街のある東エルサレム, ヨルダン川西岸地区の他の地域と同様に1967年6月以降イスラエルが複数の国連安保理決議に違反して2021年の今も占領中の地)から日帰りの旅で西岸地区にあるナブルス(ナーブルス)を初めて訪れ, そこでパレスチナの大学 An-Najah National University に行って学生たちと話した日。2日後の 1983年10月15日, 再びエルサレムからナブルスに出かけて, その大学を再訪, 2日前とはまた別の学生たちと話した。

1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後(そこまでの旅については以下 note *1 第3章にソ連・ヨーロッパ諸国旅リンク関連, 第2章にトルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの旅 note リンク), 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった(以下 note *2)。

筆者が パレスチナ/イスラエルを旅したその時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, 以下の note *-1 にある 1982年イスラエルのレバノン侵攻, そして同年9月にベイルートにおいてイスラエル軍が包囲するパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)で起きたパレスチナ難民等虐殺事件(因みに34年後の2016年にノーベル文学賞を受賞することになるユダヤ系アメリカ人の "セレブリティ", アメリカ合州国の紛れもないメインストリームのロック・ミュージシャンである ボブ・ディラン は, その直後に 恥知らずなイスラエル支持ソング を書いて 翌1983年の彼の公式アルバム "Infidels", その名も「異教徒たち」に収録している)。 

話を戻して, 1983年秋の パレスチナ/イスラエル の旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダ死海に行った(note *4)。6日目は, 東エルサレムエルサレム旧市街を歩き, 西エルサレムでは「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム)を訪ね, とエルサレムの「東西」巡り(note *5)。7日目, 1983年10月4日は, エルサレムをひとまず発って「48イスラエル」の都市ハイファに行き, 今も強く印象に残るパレスチナ人の老人に出会った日(note *6)。8日目, 10月5日は, ハイファから日帰りでナザレへの旅をし(note *7), ナザレから「ハイファに戻って」(note *8), そして翌日, ハイファから向かったのはテルアヴィヴ(note *9, *10; 10月6-9日)。テルアヴィヴに3泊4日滞在した後は, エルサレムに戻って旧市街を歩いたり近郊のキブツに出かけたり(note *11,10月9-10日)。その後, 10月11日には エルサレムから日帰りの旅で西岸地区の街 ヘブロンへ(note *12)。さらに 10月12-13日も西岸地区内の街に日帰りの旅をし, それぞれビルゼイトにある大学, ナブルスにある大学を訪問して, 学生たちと様々なことを話した(note *13)。そして 1983年10月14日は滞在地に留まり(東エルサレム), エルサレム旧市街をあらためて歩いた(note *14)。

本章, 以下は 関連 note リンク。

*−1 ノーベル賞の季節になると思い出す, 2016年ノーベル文学賞受賞のボブ・ディラン。ディランの 恥知らずなイスラエル支持ソング は, 1982年イスラエルのレバノン侵攻と同年9月のレバノンにおけるイスラエル同盟者であったキリスト教右派民兵たちによるパレスチナ難民等虐殺事件(ベイルート, イスラエル軍が包囲したサブラ・シャティーラ難民キャンプにて)の直後に書かれ, 1983年リリースのアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)に収録。

なお, この一文は(文字通り「この一文」!), 今も胸くそがわるくなる ボブ・ディラン 恥知らずな 1983年リリースの イスラエル支持ソング についての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。

*1 再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜  第3章で 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, その前の第2章は, ギリシャ・アテネからトルコ・イスタンブールに移動した後の ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン

*2 パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

*3 ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日

*4 ジェリコ, マサダ死海; 1983年10月1, 2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

*5 エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日

*6 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

*7 ナザレ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月5日

*8 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日

*9 テルアヴィヴ/48イスラエル 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)

*10 テルアヴィヴ/48イスラエル, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人

*11 エルサレムに戻って, 1983年10月9-10日 〜 見たり聞いたり考えたり思い出したりキブツに行ったり.. 

*12 ヘブロン, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月11日, 4月26日に日本を発ってから169日目

*13 被占領地パレスチナの街にて, パレスチナの大学を訪ねた; ビルゼイト と ナブルス 〜 1983年10月12, 13日

*14 エルサレム旧市街 にて 〜 1983年10月14日, 4月26日に日本を発ってから172日目

ふーっ, と(自分が!)一息ついてから次章へ。

パレスチナ/イスラエル問題 概観

前章にもリンクを付した以下 note 投稿の中の「ハイファに戻って」旅 note に入る前の第2章が パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」(その前の第1章は「48イスラエル」, 「47イギリス委任統治領パレスチナ」)。

さて, 

「我々がここで勉強し, 働き, とにかくここに住み続ける, そのことが ここでは 闘いにもなる」 〜 再び ナブルスの大学を訪れ, 学生たちと話し, 彼らから話を聞いた 1983年10月15日(旅日記10ページ)

2日前の 1983年10月13日にナブルスにある大学 An-Najah National University に初めて行って, 学生たちと話した時のことは, 以下の note に掲載している。

タイトル写真はその前日 10月12日にビルゼイトの大学 Birzeit University を訪ねた時の写真で, 第3章が 大学を訪ねて学生たちと話した, ビルゼイト見聞録(旅日記10ページと写真1枚) 〜 1983年10月12日; そして第5章が 大学を訪ねて学生たちと話した, ナブルス見聞録(旅日記9ページと写真2枚) 〜 1983年10月13日

2日後の 1983年10月15日, 滞在地エルサレムを発って 再びナブルスを訪れ, そしてもう一度 An-Najah National University に行って, 前回とは別の学生たちと様々な話をした。

旅日記 1/10

旅日記のこの頁については, 前回の旅 note

の第4章 1983年10月14日の エルサレム旧市街, 見聞録 に掲載した「旅日記 5/5」と同じ。そこから引用しておくと, 

下の方に書いてある通り, 翌日つまり 1983年10月15日ナブルスの大学を再訪)の旅日記は, 実際にはガザ地区に移動してから, 10月16日の夜にガザの宿で, 当日分と共にまとめて書いていたようで。まぁこれは流石にそこまで細かいことを記憶しているのではなくて, この日記にそう書いてあるから, そういうことだった, てなわけだけど!

下から7行目までは, 前日 1983年10月14日の夜の記述。書かれている通り, その前の日 10月13日に訪ねたナブルスの大学にもう一度行ってみようと思案していた。

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上の青塗り部分は個人名, 個人情報の黒塗りならぬ青塗り。また最後の2行に書いてあることは, バックパック担いで旅していて一度ならず経験するようなこと。これについては上掲の前回の旅 note の該当箇所で少し説明しているので, ご関心ある向きはそちらをご覧あれ。今日は愛を割ってしまう, 割愛! 

旅日記 2/10

一応書いておくと, 以下の掲載頁にもあるように, 当時, 日記の中では PLO のことをいつも「ピーエルオー」とカタカナ書きしていた。細心の注意を払っていたのだが, 要するに パレスチナ/イスラエルの旅の間, イスラエル兵などから手荷物等のチェックを受ける際になるべく面倒なことにならぬよう, 日記など捲られてもそうした記述が目に留まりにくくする為だった(実際, 例えば後日, 当時は今現在のイスラエルによる軍事封鎖下ではなく同国による軍事占領下だったガザ地区を出て陸路 エジプトに向かう際など, ボーダーの出入り, 国で言えば「出入国」管理を担当するイスラエル側官憲による手荷物チェックはかなり細かく厳しいものだった)。 

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旅日記 3/10

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旅日記 4/10

WEST BANK の many places で パレスチナ人は新しく家を建てれない。ユダヤ人入植地のため。

WEST BANK とはつまり, イスラエルが 1967年6月以降, 複数の国連安保理決議に違反しながら(2021年の今も)占領し続ける(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸地区のこと。占領地に占領国側が 入植地を建設することは国際法違反だが, イスラエルはこれを 2021年の今現在も続けている(国連はじめ国際社会からの批判・非難などお構いなし)。また, 一言で言って パレスチナ人は新しく家を建てれない といった状況についても, 2021年の今も続いているもの(これも国連はじめ国際社会からの批判・非難などお構いなし; 何と言っても, これまでのところ, イスラエルは何をやっても「超大国」アメリカ合州国の後ろ盾を得ている, それがこんなことがいつまでも可能になることの最も大きな理由)。

アサドその他 そこにいたほとんど(もしくは全部?)が 囚人経験あり。

もちろん, これは占領者イスラエルに対する抗議活動を理由とした 政治犯 としての「囚人」。これも, 2021年の今も変わらない。というか, 悪化さえしているだろう。以下は 2021年10月末現在の状況(Administrative Detainees とはイスラエルが占領者側が言うところの「罪状」すら明らかにせず, 裁判も行なわないという不当極まりない方法でパレスチナ人を逮捕・勾留している「行政拘禁」のこと)。

さて, 1983年当時のイスラエルによる牢獄に勾留されたパレスチナ人政治犯の状況は, 彼らが話してくれたところによれば,

夕めしは(たしか)4時, 消燈は7時, 夕方の一定時間, イスラエルのラジオの News をきかなくてはならない。むろん狭い部屋。他にも悪条件を言った(詳しくは忘れた)。
いったん囚人となると, もうヨルダンにさえ行けなくなる。

「吉田さん」とは, 筆者がヨーロッパを旅している間に出会った日本人のパレスチナ支援者。

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旅日記 5/10

ここで言う「パレスチナ」とは, 1948年のイスラエル「建国」以前のパレスチナ, つまり「イギリス委任統治領パレスチナ」(「バルフォア宣言」への言及を含め, 詳しくは本 note 第2章でリンクを付した過去の note の当該の章に記述)。

彼はこう続けた。

しかし, たとえば スペインがアラブだったときがある, だからと言って 今 アラブ人が スペインを占領していいことになるか。

「いい」はずがない。

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2日前にこの大学, そして 3日前にはビルゼイトの大学を訪ねた際は, 「我々は(イスラエルの)ユダヤ人とも一緒に住める」とはっきり言う多くのパレスチナ人学生に会ったのだが, この日の「アサド」はこの点は厳しかった。これはこれで無理もないと言えるところだが, 

しかし 2021年の今, パレスチナ人とイスラエル人やパレスチナ/イスラエルの地以外のところに住むパレスチナ人, イスラエル人・ユダヤ人の間で, この地に両民族が共に暮らす「民主的な一国家」を建設しようという声は(以前に増して)強くなってきている。

note パレスチナ/イスラエルが 「民主主義的な一国家」 になるという未来の 「現実」 を想像する

旅日記 6/10

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サブラ・シャティーラ だって もう世界は忘れてる。

サブラ・シャティーラ とは, この1983年当時のほんの前年, 1982年6月からのイスラエルによるレバノン軍事侵攻の際, 同年(1982年)9月にイスラエル軍が包囲していたレバノンの首都ベイルートのサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプで起きた, イスラエルのレバノンにおける同盟者であった同地のキリスト教右派民兵たちが(夜間は照明弾を夜空に打ち上げるなどの)イスラエル軍による協力のもと起こした パレスチナ難民等虐殺事件 のことを指している。因みにその直後に恥ずべきイスラエル支持ソングを書いたのが, ユダヤ系アメリカ人の "セレブリティ" でアメリカ合州国の紛れもないメインストリームのロック・ミュージシャンである ボブ・ディラン

旅日記 7/10

パレスチナの解放闘争の中からしばしば "Existence is Resistance" という言葉が発せられるが,

我々がここで勉強し, 働き, とにかくここに住み続ける, そのことが ここでは たたかいにもなる。

これこそ, それを意味していると言ってよいだろう。

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旅日記 8/10

イスラエルの言う「平和」とは, 我々をたたき出したうえでの「平和」だ。あるいは 押さえつけたうえでの「平和」だ。

まさしく。そしてこれも, 2021年の今に至るまで続いている。残念ながら。

note ジェリコ, マサダ・死海; 1983年10月1,2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

note 終わらないパレスチナ人の悲劇 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル支援のもとで

note イスラエルはヨルダン川と地中海の間に存在する 「アパルトヘイト」 レジームである(イスラエル最大の人権擁護NGO, B’Tselem) 〜 これに対しイスラエル「擁護」専門家の抗弁は?

さて, 話を戻して(だから要するにこの話は 2021年の今につながっているのだが), 以下は 1983年当時の旅日記。

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街の中心行きのバスにいっしょに乗り込んだ 1人は, アサドと同じ獄中(同じ部屋)にいたことある とのこと。彼の場合は, 数回(正確には忘れた)で 合せて 10ヶ月。
アメリカは日本に核を持ち込んでると思うか と言うので, 日米両政府は 日本に核なし と言ってるが, それはウソで, オレはあると思う と言っておいた。

旅日記 9/10

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大学の食堂, 例によってアラファト, ハバシュ, ゲバラ, その他 ビルゼートで見たものと同じ写真が たくさん貼られてた。

さて, 以下は, 

1983年10月15日付 旅日記の最後の頁。

旅日記 10/10

この頁の最初の3行は, 世界の「経済」や「産業」の中で 日本のそれが, 結局は日本という国そのものが, あたかも「飛ぶ鳥を落とす勢い」であるかに見えた 1983年当時, その頃の世界における日本のイメージの一端が見えるような話。

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最後の2行は, 見ての通りで, 翌日 1983年10月16日, エルサレムを発って, ガザ地区に向かった日の日記の冒頭(本章の前の方で記した通り, 10月15日と16日の2日分については, ガザ地区に着いてから, 16日の夜にガザの宿で書いたもの)。

というわけで, 

今日も今日とて, note の最後は 音楽で。

1983年の旅日記でも分かるように, 2021年の今や「凋落」の一途を辿る日本が, その昔は「飛ぶ鳥を落とす勢い」に見えていた(あくまでも「見えていた」), その当時の世界における日本の立ち位置を音楽で振り返る 〜 ピンク・フロイド "The Final Cut" (1983), ダイアー・ストレイツ "Love Over Gold" (1982)

すっげ長い, 長い長い章見出しになってしまった ♫

さてさて, 前章に掲載した 1983年10月15日付, パレスチナ/イスラエルの旅の途上で書いた旅日記, その日の最後の頁の最初の3行, 

日本の腕時計, TV ついてるのがあって, 日本では日本の, シリアではシリアのTV が見れる っていうのは true か?
日本は もうじき 人間までつくり出すんじゃないか?

前章でも書いた通り, これは, 世界の「経済」や「産業」の中で 日本のそれが, 結局は 日本という国そのものが, あたかも「飛ぶ鳥を落とす勢い」であるかに見えた 1983年当時, その頃の世界における日本のイメージの一端が見えるような話。

ここでは音楽を。背景など細かいことは以下の note に書いたので, 今日はそれは割愛。note 3つのリンクの下に, 3曲を ♫

2021年の今, 今や「凋落」の一途を辿る日本が, その昔は「飛ぶ鳥を落とす勢い」に見えていた(あくまでも「見えていた」), その当時の世界における日本の立ち位置を, ピンク・フロイド "The Final Cut" (1983), ダイアー・ストレイツ "Love Over Gold" (1982) で振り返る

1983年7月10日から11日, イタリア・ギリシャ間のフェリーの船旅の間, 地中海の海上で ダイアー・ストレイツ や ピンク・フロイド を聴いていた ♫

イタリアからギリシャへと地中海を渡るフェリーで聴いていた 〜 ダイアー・ストレイツ ピンク・フロイド

というわけで, 1983年 7月10日から11日, イタリアからギリシャに渡るフェリーの船旅の間, 地中海の海上で, ピンク・フロイド 1983年3月リリースのアルバム "The Final Cut", そして ダイアー・ストレイツ 1980年10月リリースのアルバム "Making Movies", 1982年9月リリースのアルバム "Love Over Gold" を聴いていたのだった。

The Post War Dream 〜 from "The Final Cut" by Pink Floyd (March 21, 1983) ♫

アルバム "The Final Cut" のオープニング・トラック "The Post War Dream" はこんなイントロで始まる。"nuclear" という文言が踊る米ソ冷戦末期, フォークランド紛争は今や「懐かしく」思えるような歴史上の事件だが, そこに "Japan" が。

“…announced plans to build a nuclear fallout shelter at Peterborough in Cambridgeshire…”
“…three high court judges have cleared the way…”
“…It was announced today that the replacement for the Atlantic
Conveyor, the container ship lost in the Falklands conflict would be built in Japan. A spokesman for…”
“…moving in. They say the third world countries, like Bolivia, which produce the drug are suffering from rising violence…” 

次は,

同じく "The Final Cut" から, アルバムの最後から2番目の曲 "Not Now John" ♫ その歌詞もそうだけど, このミュージック・ヴィデオなんか, 芸者風の女性はじめ, デフォルメされた日本や日本人のイメージが其処彼処に。(ちょっとアメリカ合州国1982年6月25日公開, 日本では1982年7月3日に公開されたリドリー・スコットの映画 "Blade Runner" を思い出すヴィジュアル, あの物語の舞台は 2019年以降のロサンゼルスだったけれど)。

Not Now John 〜 from "The Final Cut" by Pink Floyd (March 21, 1983) ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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本章の最後は, 

Industrial Disease 〜 from "Love Over Gold" by Dire Straits (September 20, 1982) ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

Telegraph Road 〜 from Dire Straits 1982 album "Love Over Gold"

今日の note, 最後の最後は, この曲で。

Telegraph Road 〜 the opening track on Dire Straits' fourth studio album "Love Over Gold", released on September 20, 1982 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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