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人生の底にいても大丈夫だった 〜 暴れだす(ウルフルズ), IF (Pink Floyd), There but for the grace of you go I (Paul Simon), かんじんなことは、目に見えないんだよ (サン=テグジュペリ「星の王子さま」)

前説

タイトルはキーワードみたいなものを並べただけ。Facebook は非常につまらない検閲をしつつユーザーのアカウントを無闇矢鱈とブロックする SNS だけど(筆者のアカウントはいま30日間の機能停止中、この種のブロックはもう百万回目ぐらいなので馴れてしまったけれど、笑)、一方で Facebook の便利なことの一つは、x 年前の同日の投稿とか xx 年前の同日の出来事などを日々ユーザーに知らせてくれること。だから、自分が過去に投稿したものであれば、本人が期日までは忘れてしまっている時であっても、毎日のように何かを思い出させてくれたりする。ただ、笑えるのは、Facebook 側がそのユーザーのアカウントを強制的に機能不全にしている期間中であるにもかかわらず、例の如くに 1年前、2年前、あるいは出来事の期日をセットした投稿であれば例えば30年前のその日のことについて投稿したものであっても、「どうです、これ懐かしいでしょ。あらためて今日、この投稿をあなたのタイムラインでシェアしてみませんか」ってな感じで、当該ユーザーに知らせてくること。

あなたね、あなた方がいくら「どうですこの投稿、シェアしてみませんか」ってこっちに奨めても、こちとら今あなた方にアカウントをブロックされている為に、自身のタイムライン上はおろか、Facebook 内の何処であれ、投稿も他人の投稿へのリアクションも、コメントも出来ない、要するにそのアカウントを使って Facebook 内で何かすることは一切出来ない状態を強いられているんだよ。巫山戯るのもいい加減にしなさいってんだ、Mark SUCKerberg!!

とはいっても(笑)、まぁ Facebook のアカウント機能停止中であっても、Facebook がそんなこと何処吹く風とそのユーザーに対して当人の x 年前の投稿とか当人がかつて投稿した xx 年前の出来事とかを知らせてくれるのは、率直に言って、ありがたいところではある。単純に、嗚呼あの日あの時はこんなだったなぁ、なんて振り返ったりできるからね。

それは 「人生のポケット」 の時代の初期の頃だった

2002年の初夏あたりから、2016年の1月終わり頃まで、「人生のポケット」の中にいた。その時期の前半は「鬼のように」働いていたし(単純に過労死してもおかしくなかったレベル、これは当然ながら決して誉められたことじゃない)、もちろん物理的には社会の中で息をしていた、生きていたけれど、まぁとにかく、「人生のポケット」。

2009年11月からは「人生のポケットの底」にまで堕ちたけれど、「人生のポケット」時代の初期、2002年初夏から2003年にかけての時期も精神的にひどく苦しい時代だった。2002年の暮れ、今頃の気分も、暗い闇の中を毎日もがいているような、そんな気分だったと思う。

「人生のポケット」を主題にしたり、そのことに触れたりした note 投稿は既に相当数しているけれど、今日のこの投稿の主題は「人生のポケット」そのものではないし、関連投稿の全てへのリンクを置いてもキリがないから、2つだけにしようと思う。

1点目は最初に書いたもの。2点目は比較的最近のものだけど、その投稿の主題に絡めて 〜 というわけで、 「人生のポケットから出る方法はどこかにある」、それは実は他の何処にもない、「ここ」にあるのかもしれない 〜 なんぞという見出しの章を設けていたので(その章自体は「人生のポケット」関連投稿へのリンクを置いただけのものだけど)。

星の王子さまミュージアムと箱根の旅 〜 18年前の今日の家族旅行

今からちょうど18年前の今日、2002年12月28日、妻と当時10歳だった息子と家族三人で、箱根に1泊2日の旅行をした。1日目に箱根にある「星の王子さまミュージアム」を訪ね、その夜は予約してあった箱根の宿に1泊して、それからまた、茨城県の県南の小さな地方都市にある、1995年の春からこれまでずっと住み続けている我が家に戻った(ただし息子は今から5年前に巣立って東京住まいの後、昨年12月から韓国・ソウル在住、でも来年1月末ぐらいからはしばらく帰省しているかもしれない)。

サン=テグジュペリの名著「星の王子さま」は、筆者は大学に入学した年、その 19歳の時に買って読んだ本なんだけれど、あの本は大人が読む本としても十二分に価値がある。

で、その「星の王子さま」、18年前の当時、旅行に出かける前の何日間かかけて、あらためて家族三人で輪読していて、その旅行前日に読了した(その時の日記と、「星の王子さま」の "触り" の一部は、本 note 投稿の最後の章にて)。

以下は、旅行中に撮った写真の中の一部。当然ながら、思いきり私的な、ごくごく私的な写真ばかりだけれど(この時期の麗しき富士山を撮ったものは必ずしも「私的」な写真というわけではない、そりゃ当たり前だなぁ)。

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暴れだす

「人生のポケット」にいる間、言葉では言い表わせない辛さがあったけれど、しかし兎に角、自分はその時期を生き抜いた。自分自身は、何があっても自分で自分の命を落とすようなことをするタイプの人間ではなく、それは当時も今もそうだけれど(まぁ2016年の1月終わり頃だったか2月初っ端頃だったかに「人生のポケット」を脱け出てからは尚のことあまりに当然のことなのだが)、しかし妻と息子がいなければ、とりわけ妻がいなければ、その「人生のポケット」期の自分は、ぜんぜん違うものになっていただろうと思う。自分から見てもっともっと底まで堕ち、もっともっとどうしようもなく情けない人間になっていただろうと思う。

今からちょうど18年前に当たる2002年12月28日の家族旅行の際に撮ったこの写真を見ると、いつの頃からか、自分の頭の中でウルフルズの「暴れだす」がまるで BGM のように流れるようになった。

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まぁ自分は「神」なるものなんか金輪際(これって元々は仏教用語だと思うけど、笑)(それに過去にも信じたことないけど、笑)信じないけれど、たまには宇宙の何処か、あるいは身の回りの其処彼処に存在しているのかもしれない何か偉大な力みたいなものを考えることはある。ってのは結局、物理的な、自然科学的な意味においての「偉大な力」ってことではあるのだけれど。

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*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりこの下に掲載していた歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部のみの掲載に改めました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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あぁ 神様オレは 何様ですか ..

あぁ あのコはなぜ 笑っているのか, あきれるほどの オレのダメさに イヤな顔もせず 知らん顔もせず, 少ない言葉で はげましてくれる ..

もしも あの時 もっと心に余裕があればなぁ.. 今まで こんなに人を悲しませずにすんだなぁ ..

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* 以下は、2001年夏に本を買って HTML の基礎を独学して立ち上げた自分のホームページ上の日記へのリンクで、当時から仕様を変えてないこともあって、PC を使った場合は大抵のブラウザで閲覧可能であるものの、現時点ではスマホだと OS次第で文字化けする。

 

IF 〜 Pink Floyd (歌詞和訳)

ピンク・フロイドの1970年リリースのアルバム "Atom Heart Mother", 邦題「原子心母」、その LP, A面はタイトル・トラックである組曲 "Atom Heart Mother" だけれど、レコードをB面にひっくり返したその 1曲目は、Roger Waters が作詞作曲した IF, 以下に掲載する和訳歌詞は、筆者が 2003年8月10日に訳したもの。18年前の今日の「星の王子さまミュージアム」箱根への家族旅行から、約8ヶ月後の趣味シュミ「洋楽」歌詞和訳。まだまだ「人生のポケット」期の序盤だったけれど。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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もしも僕が白鳥だったなら
僕はどこかへ行ってしまうだろう
もしも僕が列車だったなら
僕は遅れるだろう
そしてもしも僕が善い人だったなら
僕は今よりもっと君と話すだろう

もしも僕が眠ったなら
僕は夢を見ることが出来るだろう
もしも僕が何かに不安だったなら
僕はこの身を隠すだろう
もしも僕が気が狂ってしまったら
どうか僕の脳に君の回線を埋め込まないでほしい

もしも僕が月だったなら
僕はクールになるだろう
もしも僕がルールだったなら
僕は曲がってしまうだろう
もしも僕が善い人だったなら
僕は友達の間にある距離と空間を理解するだろう

もしも僕が一人だったなら
僕は泣くだろう
そしてもしも僕が君と一緒だったなら
僕は家に居て涙も乾くだろう
そしてもしも僕が気が狂ってしまっても
それでも君は僕をゲームの仲間に入れてくれるかい?

もしも僕が白鳥だったなら
僕はどこかへ行ってしまうだろう
もしも僕が列車だったなら
僕はまた遅れるだろう
そしてもしも僕が善い人だったなら
僕は今よりもっと君と話すだろう


There but for the grace of God, go I ではなくて 〜 There but for the grace of you, go I, "Kathy's Song" by Paul Simon (歌詞和訳)

"There but for the grace of God, go I" は英語の成句で、訳せば「神の恩寵がなかったら この自分もあんなふうになっているだろう」といった感じ。

Paul Simon はこの歌の歌詞の中で、その成句の "God" を "you" に置き換えて、"There but for the grace of you, go I" と歌っている。そして、その前のヴァースでは、"The only truth I Know is you" とも。

この曲は Simon & Garfunkel の 2枚目のアルバム "Sounds of Silence" (1966年1月リリース) にも収録されているけれど、以下で取り上げるのは、同じく S&G 時代ながら、1965年8月にリリースされた Paul Simon の最初のソロ・アルバム "The Paul Simon Songbook" に収められたヴァージョン。

この歌の歌詞は、今日の投稿で書いた18年前の箱根と箱根にある「星の王子さまミュージアム」への家族旅行から約2ヶ月後、2003年 2月23日に訳した。

ただ、一部、「意訳」というより厳密には「誤訳」と見做されていい箇所があって、まぁ訳した当時の心情を察して(笑)、というか、単に「ご愛嬌」かなとも思うが、その部分は昨年、2019年11月9日に note に投稿した際に修正した(以下の歌詞と筆者による和訳歌詞の下に、その投稿へのリンク)。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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ぼくは霧雨の雨音を聞いている
過去の記憶をよみがえらせる音
静かに暖かく降りつづける音
ぼくの心の屋根と壁をたたく音

ぼくは心の隠れ家から
瞳の窓の向こうを眺め
雨にぬれた通りの彼方を見つめる
ぼくの心のふるさとイングランドを

ぼくの心は混乱し拡散する
想いは何マイルも遠くへ向かう
そして君が眠っている時には眠りを共にし
君が君の1日を始める時には君にくちづけする

ぼくが書いていた歌は見向きもされず
なぜ時間を費やすのかさえわからない
ぼく自身が信じられないような歌を書くためにね
無理に引き裂かれて 韻を踏まされた言葉を使いながら

そうなんだ 僕はついに疑うようになってしまったのさ
みんな一度は本当のことだと心に抱いていたのに
ぼくは今 何の確信もなく一人で立っている
ぼくの知っている唯一の真実は君だけなんだ

そしてぼくは雨の雫を見ている
縫うように降りかかり疲れて消えていく雫を
ぼくもこの雨のようなものなんだって思う
それでもぼくは 真実の恵みがあればやって行けるのさ


かんじんなことは、目に見えないんだよ 〜 「星の王子さま」(サン=テグジュペリ)

サン=テグジュペリの名著「星の王子さま」については、本 note 投稿の「星の王子さまミュージアムと箱根の旅 〜 18年前の今日の家族旅行」という見出しの章で書いた通りだけれど、筆者は大学に入学した年、19歳の時に買って読んだ。

で、今も大事にして持っている。あの本は大人が読む本としても十二分に価値があって、いつか note の投稿の中であらためて書いたみたい気がしているけれど、今日のこの投稿の中では、最後にごく簡単に取り上げる程度で。

今からちょうど18年前の今日、2002年12月28日、妻と当時10歳だった息子と家族三人で、箱根に1泊2日の旅行をしたわけだけれど、その 1日目に、箱根にある「星の王子さまミュージアム」を訪ねた。

で、そのサン=テグジュペリの「星の王子さま」、18年前の当時、旅行に出かける前の何日間かかけて、家族三人で輪読していて、旅行前日に読了した。

以下にその時の日記 2つを掲載し(自分のホームページに掲載してきたものからの転載)、そのあと、「星の王子さま」についての "触り" 的な一部に触れて、今日の投稿は終えます。

2002年12月22日(日)  サン・テグジュペリ、クリスマス、アムネスティ

カタカナ並んじゃったのはたまたま。

結婚して間も無く、クリスチャンじゃないんだから変じゃんと言って、クリスマスはやめた。でも子供が生まれてしばらくして、「サンタからの贈り物」をしてあげるようになった。子供の頃にそういう夢を信じるのはいい体験だと思い直してのことで、そういう意味では、我々にはそれがクリスマスでなくちゃいけない理由は無い。他のファンタジーでもいいはずだが、たまたまキリスト教を源とするストーリーを借りたってことなのかもしれない。

だけど、何日か前に、息子が母親に「本当はお母さんが持って来ているの?」と尋ねたらしい。夢の「サンタの贈り物」でなくなって「親からの贈り物」となってしまえば、やっぱりクリスチャンでない我々がやるのは変だってことだよな、結婚当初の考え方に還れば。来年からどうしようか。

この頃、サン・テグジュペリの「星の王子さま」を家族で輪読している。俺はあれを大学生の時に初めて読んだ。平易な文章なのに、大人が読んでも相応しいって思う。かんじんなことは目に見えない。一番大切なものは目に見えない。

今日、以前からたまーにグッズを買ったりしていたアムネスティ日本支部に、WEB で入会資料を請求した。会員になると決めたわけじゃない。ちょっと資料を見てみる。何かに、ほんの少しでも実際上の関わりをしていたい気がしてきている。今のままでは精神の症状が悪くなる。処方箋も必要だ。動機が不純だとは思わない。もともと関心あるんだし。プッシュする動機は何でもいいって思ってる。焦らず、しかし少しずつ動きながら考えていかないと。精神の生き死にのレベルから、少ーしずつでも進みたい、とは思ってる。でも、どうしたら本当に進めるのか、どうしたら可能になるのか、何かいい方法でもあるのか、わからない。わからない。名案なんか、有り得ない。何か気が向いたことをしてみつつ、考えていこうか。何か、本気で関心あることを、ちょっとでもやってみる。あるいは関わってみる。と思いつつ。

2002年12月27日(金)  サン・テグジュペリ、パレスチナ、脈絡もなく

今日、サン・テグジュペリの「星の王子さま」の家族輪読というか、息子への読み聞かせというか、とにかく読了した。よく言われるように、単に子供用の童話とは言い切れない、不思議な雰囲気の話だ。何かを大切に想う気持ちがあれば、世界が変わってくる・・・。大人が読むべき本かもしれない。

ここのところ、BS で連日パレスチナの特集の再放送をやってた(今日は見逃した)。学生時代にリュック一つで旅してから、何度も何度も頭に考えが浮かんでくる土地。それはその後もずっとパレスチナに平和と幸福が訪れず、世界に紛争や悲劇が報道され続けているからでもあるけれど。

(だけど、たぶん俺が旅行した時期よりもさらに 10年以上前(?)までは、世界は彼らに注目しなかった、中東戦争の時期以外は。パレスチナ人がハイジャックなどの実力行使に訴えない限り、世界は彼らに見向きもしなかったのではないか。時代は大きく変わったけど、彼らの境遇はほとんど前進してないようにも見える。)

今年最後だからって、何にも話はまとまらない。何ともまとまらない、言いようがない自分の1年がもうすぐ終わる。ここで1年て言ったってカレンダーの話。でもまぁ意味ある区切りなんだろうか。とにかく来年も生きる。これからも生きる。ずっと生きる。

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*以下は、2001年夏に本を買って HTML の基礎を独学して立ち上げた自分のホームページ上の日記へのリンクで、当時から仕様を変えてないこともあって、PC を使った場合は大抵のブラウザで閲覧可能であるものの、現時点ではスマホだと OS次第で文字化けする。

日記へのリンクの下は、「星の王子さま」の "触り" 的な一部の紹介、など。

以下、「星の王子さま」(フランスの飛行士・小説家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著、1943年にアメリカ合州国にて初版発行)、筆者が大学1年の時に日本語版(これは 1946年発行の著者の母語であるフランス語版からの翻訳本なのだと思う)を買って今も持っているその本、そしてその物語の "触り", "さわり" 的な一部を、さらりと。

献辞からして、既に素晴らしい。

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「さっきの 秘密 をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
(「星の王子さま」サン=テグジュペリ著, 岩波少年文庫 115頁, キツネが「星の王子さま」に語った言葉)

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残る写真 5点は、その「星の王子さま」の表紙と、発行年月日が書いてある頁と、そしてなぜか、手塚治虫の名作短編漫画集「空気の底」関連、さらにその「空気の底」とサン=テグジュペリ著「星の王子さま」を並べた写真(「なぜか」なんて書いたけれど、その理由も併せて記しました)。

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以下、最後に載せる写真 3枚は、手塚治虫の短編漫画集「空気の底」の裏表紙、表紙、そして「空気の底」とサン=テグジュペリ著「星の王子さま」を並べたもの。

手塚の短編漫画集「空気の底」の中に、サン=テグジュペリが「星の王子さま」に託した大切なメッセージへの言及があって、それが切っ掛けで「星の王子さま」をあらためて読んでみようと思ったことがあったと記憶していて、そのことを 4年前の夏に Facebook に投稿しようとして、この写真を撮っていた。

ところがその機会に久しぶりに「空気の底」を開いてパラパラとその箇所を探してみたところ、該当箇所はみつからなかった。勘違いだったのかどうか、その後に特に確かめることをしていないのだが、あの短編漫画集の中をあらためて探しまくればみつかるような気もするし、あるいは他の手塚作品の何処かだったのかもしれない。いずれにしても、彼の数多の傑作漫画のうちのいずれかにその箇所があったことは間違いないと思う。そのうち、何かの機会、再び訪れる機会にでもみつけるかもしれない。

手塚治虫の短編漫画集「空気の底」は1975年5月10日初版発行、筆者が学生時代に買って読んだ版は1979年6月30日発行の16版なので、たまたまではあるが、筆者がサン=テグジュペリ著「星の王子さま」を買って読んだ時期とほぼ重なることになる。

手塚には「火の鳥」をはじめとした沢山の長編漫画の名作があるが、一方でやはり非常に多くの傑作・短編漫画集を世に残している。「空気の底」もその一つで、「聖女懐妊」、そして巻末を飾る「ふたりは空気の底に」など、印象に残る美しい物語がずらりと並んでいる。

以下は、「聖女懐妊」(副題: The conception of the Virgin Mary, 初出「プレイコミック」1970年1月10日)、そのオープニングの一コマからの転載。

ぬばたまの常闇の彼方
光芒の天関に懸るあり
ここにチタンなる
星屑のもとにて
男ひとり
遥けき故郷を惟う

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物語の舞台は、土星の衛星チタン(ティタンまたはタイタン)。土星の第6衛星で、太陽系内の衛星として唯一、豊富な大気を持ち、太陽系において地球以外で唯一、表面に安定的に液体が存在する天体。時代はもちろん、未来。

マリヤ(要するに「マリア」、この名前はキリスト教における「聖母マリア」からとったものと解釈するのが自然だろう)という名の A4級型アンドロイドロボット(固有名「A413289マリヤ」)が、主人公ヒロシに「神」なるものについて尋ねる。その時の会話が以下。

「ヒロシ ..... 神様ってありますの?」

「かつては おれはそんなもの 信じなかったよ」「そいつは宗教といわれていたんだ」「だが宗教どうし勢力争いがあって 神もほとけも キリストも釈迦も マホメットも 消えてしまったよ」「神なんか ないんだ ...... 信じるのはコンピュータだけだ ..... と 地球ではおれはそう思ってたが ... この宇宙基地で天体の運行を見まもっているうちに ... なにか大きな偉大な力が宇宙に働いているということがわかってきたんだ」「不可思議な神秘的な なぞの力だ」「これが『神』の力なんだろうか ... おれにはわからないよ」

物語の終盤、ヒロシが死んだ後に、地球からチタンに調査員が訪れる。最後の場面での、調査員とマリヤの会話。

「おまえはさっき 神様がむすんで下さった といったな? ...... 神を ...... 信じるのかい ..... 」

「はい! この宇宙のどこかに ...... なにか偉大な力が ...... 」

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筆者は無神論者。もちろん、「神」なるものの存在を信じない。科学的証拠がないのに信じるものか。科学的証拠がないのにもかかわらず信じること、信じるものを、宗教、信者という。

偉大な力とは、物理的な、科学的な意味における力なのだが、しかし、それでも、この物語は非常に好きだ。ファンタジーは科学ではないからね。

以下、手塚治虫著「空気の底」の裏表紙と表紙、そして「空気の底」とサン=テグジュペリ著「星の王子さま」。

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以下の写真、右の「星の王子さま」の上にエリック・クラプトンのグッズを置いたことには特別な意味はない(当然ながら!)。筆者、ガキの頃から長年のクラプトン・ファンで何度も何度も来日公演を観ているくらいに彼の音楽の大ファンであるものの、これは表紙が捲れ上がってしまうのを抑えるために使った、単なる重し代わり(笑)。

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