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韓国への旅 〜 7回目ながら 29年ぶり (2022年10月)

写真は 韓国・ソウルに着いた日 2022年10月8日の夜, 同行のカミさんとソウル在住の息子と 3人で 街を散策中に撮った一枚。カミさんが手にしているのは ソウル Seoul のソウル Soul フード *, ホットク。横書きハングルの上段右 2文字が「ホットク」。因みに下段の 4文字は, 日本, 大阪のソウル・フード *, 「タコ焼き」。たこ焼きも 韓国で人気があるらしい。

*いきなりの注釈。Soul Food は元々の英語における意味は「アメリカ合州国南部の黒人・アフリカ系アメリカ人の伝統的料理のこと。日本では「地域特有の料理・食べ物」「郷土料理」といった意味で使われることが多いが, ググったところ, この後者の使い方は日本以外の国でも見られるらしい。上記, 本 note 冒頭では言うまでもなくそっち。以上, いきなりの堅っ苦しい注釈でありました。

さてさて。昨秋の旅行は 在韓日本人で韓国企業勤務 兼 音楽ライターである息子(父親である自分と母親であるカミさんは日本在住日本人つまり在日日本人, 笑)や 彼の 여자친구 に会ってくるという極私的旅行だった。だから今回はごちゃごちゃ文字を連ねずに(既に連ねている, 笑), 写真どっさりプラス雑記録で, 思い切り走り書き投稿する。

久方ぶりの韓国, 本当はその新鮮味ホヤホヤ(なんて言葉ないか)の気分で昨年10月中に note 投稿するつもりだった。ところが note ユーザー個人史上いつになくもたもたしてるうちに(何しろ以前は毎週どころか週に複数回の投稿を続けていたのだが), 例のハロウィン時の梨泰院の正真正銘の悲劇の事故が起き, このタイミングでは, と躊躇しているうちに完全に時機を逸した。で, こんなに遅くなってしまった。

何はともあれ, 29年ぶり 7回目の韓国, 写真主体の走り書き記録を。

初めての 韓国 は, 1983年から '84年にかけてのバックパッカー 「海外放浪もどき」の旅の, 最後の訪問国

というわけで, こちら, note 2本 を宣伝!!

リンク集完成 〜 "Every Picture Tells a Story" (Rod Stewart) 歌詞和訳

初めての 韓国 〜 1984年1月

まずは今から 39年前の 初めての韓国 をおさらい。過去に note に認めたことがあるので, 以下にリンクを。

韓国 1984年1月の11日間 〜 1983年4月に日本を発ってから足掛け10ヶ月目, 全斗煥軍事独裁政権時代に旅した初めての韓国, 板門店も

なお, 前章でも同じリンク貼ったから しつこいんだけど(拙者, 納豆大好き粘着キャラなのだ), 上掲 note のタイトルで触れていてる 1983年 〜 1984年の旅については ..

韓国への関心, 個人史 〜 その思い切り略史

筆者が 初めて 韓国を訪れた 1984年1月には, 関川夏央によるベストセラー本, 「ソウルの練習問題」が, 翌2月には別冊宝島「朝鮮・韓国を知る本」が 刊行されている。

今も持ってる, (当然ながら)帰国後に買って読んだ 2冊。

韓国については, 大学に入ってから関心を持つようになった。拙者は 1960年911 生まれ, 大学入学は 1979年4月だった。大学2年の年, 1980年5月にはあの「光州事件」。「あの」と書いて通じるのは特定世代中心だろうけれど, しかし「光州事件」については, 韓国映画の名作「タクシー運転手 約束は海を越えて」(原題は 택시운전사, つまり「タクシー運転手」)を通して知ったという日本の現・若者世代も多いのではないかと思う。

本章, 「韓国への関心, 個人史 〜 その思い切り略史」と題して当初はいろいろ書こうと思ってたのだけれど, なんと, 文字通り略してしまうのだった(笑)。

本件, そこそこ詳しくは, 前章に リンクを貼り, 本章でも更にしつこく リンクを貼ってしまう 以下の過去 note において, その前説および第2章, 第3章で そこそこ詳しく書いているので, 興味を持たれる「普通の人々」(原題:Ordinary People, 1980年アメリカ映画, 監督:ロバート・レッドフォード, 出演:ドナルド・サザーランド, メアリー・タイラー・ムーア, ティモシー・ハットン, ジャド・ハーシュ),

あ, 間違えた(自爆, テロでなくて自分だけで爆笑, ラリってませんぞ), 興味を持たれる 稀有の人々は, 

以下の note を参照されたい, と またまた 宣伝。

前説は 目次に入る前の部分, 第2章のお題は超絶長くて, "韓国に関心が向いた切っ掛け, 1980年5月の光州事件 〜 韓国映画(2017年)「タクシー運転手 約束は海を越えて」, そして 白竜の歌(1980年発禁, 1981年自主制作・再発) 「光州City」", 第3章のお題は "「ソウルの練習問題」 と 「朝鮮・韓国を知る本」 は, 帰国後に買って読んだ",

韓国 1984年1月の11日間 〜 1983年4月に日本を発ってから足掛け10ヶ月目, 全斗煥軍事独裁政権時代に旅した初めての韓国, 板門店も

韓国 1回目 〜 7回目(動画混じり)

なんでこんな章を設けたかというと, 本 note の幾つかの章で 今回の旅の間に 韓国料理とかソウルの街とかを(漢江沿いも)撮った動画を自分のツイート介してリンク貼って掲載しようとしたら, なぜか特定のツイートのリンクを掲載できないという不思議な現象が起き(ったく, ほんと不思議だ!), やむを得ず, そのツイート・スレッドの頭へのリンクを以下に置くことで目的を果たそうということで。

件の動画は, 以下のスレッドの下の方の, いろんなところに現れます。

さて, と!

羽田 を発って, ソウルに着く

2022年10月, 吉日。

羽田空港。超絶 久しぶりに, 日本を発つ。
ソウル, 金浦空港に着。空港通路 窓越し。

公共交通機関の安さ・便利さ, タクシーの安さ, 物価の相対的な安さ, 加えて 日本との賃金比較 〜 シンプルに一言, 少なくとも今, こと「経済」的側面を見れば 日本の方が貧しい

最初に書いておくと, 既に昨年来けっこうメディアでも取り上げられているが, 勤労者の平均賃金は 今や日本人よりも韓国人の方が高い。

ついでに書いておくと, 一般に「個人の豊かさを示す」指標とされる 1人当たり名目国内総生産(GDP)に関しても, 日本は 昨年 2022年に台湾に抜かれ, 今年 2023年には 韓国にも抜かれるとの予測が出ている。

1980年代から 90年代にかけて いわゆる「開発途上国」への政府開発援助(ODA)に関わる仕事をしていた拙者, その頃までは 韓国も 日本の ODA の対象国の一つだったことをよく記憶している。ちょうどその時期に 韓国を 6度にわたって
旅し, うち 5回は「観光」(既に書いた通り, 初めての韓国は 1983年から 84年にかけての海外バックパッカー放浪もどきの旅の最後の訪問国だった), 1回は「仕事」, 日本で産業技術や企業管理手法を学んだ韓国の技術者や管理者がその後の母国の経済発展にどう貢献しているかといったテーマを与えられた実態調査の出張の 旅だった。

というわけで, 韓国のこの間の発展ぶり, そして一方で 韓国を含む諸外国との比較といった視点を抜きにしたうえでも なお指摘されるべき 日本の(とりわけ「経済」面の)凋落ぶりは, 相当に感慨深いものがある。後者に関しては, まぁ何というか「嘆かわしい」感慨ではあるけれど。

さて, こんなふうにごちゃごちゃ書き連ねたうえで, 且つ, ぐちゃぐちゃ束ねた本章の「章見出し」ながら, 以下の記述の中身は大雑把。旅して半年も経ってしまい, 細かい例を書くレベルの記憶は薄れてしまった(笑)。

ざくっと書いておくと, 日本と比べて, 韓国の公共交通機関は安い。そして 日本と違って, 一律の運賃で行ける距離が長い。そのうえ, 地下鉄から(30分以内であれば)バスに乗り換えても, そのままの運賃で目的地に行ける(つまりその場合 バス代の加算がない)。タクシーも安い。さらに 外食, 食料品, 衣服等 そのほかの物価に関しても, 当然ながら筆者が 1980年代から 90年代に訪れた当時と比べれば物価高になったものの, しかし依然として, 日本よりは安い。

そこで 話を 本章の冒頭に戻すと, 韓国人勤労者の平均賃金は, 既に日本人のそれを上回っている。一方で 前段に書いた通り, 今も 物価は相対的に 韓国の方が安い。ということは, 今, 実質賃金で測れば, 韓国人の平均と日本人の平均の差は, さらに大きいということになる。

最後につまらんことを書いておこう。昨秋, 韓国の有名プロ野球選手がオフを利用して日本に来ていることを取り上げたニュースがあった。筆者はそれをたまたま Yahoo ニュースサイト上で見たのだが, コメント欄には相変わらず「ネトウヨ」どものくだらないヘイトが溢れていた。その中に笑えるものがあったので, ここに付記しておく。なんと「韓国なんて日本と比べれば 経済も格下」と書かれていたのだた。

ほんと, 彼ら「ネトウヨ」諸氏の頭の中を想うと, 慨嘆を通り越してただただ笑えてくる。しかし, 自分が生まれ育った郷土としての母国「日本」の将来を想うなら, やはり嘆かわしいとしか言いようがない。もしも 現実が見えない, あるいは現実を見ようとしない日本人が今後も減らないのなら, 日本の凋落は止まることを知らないだろう。

チョンマル マシッソヨ 〜 相変わらず, 当然ながら, 韓国料理は美味い!

ほんと, やっぱ 美味いね。若い時の海外バックパッカー放浪もどきの旅を含めて これまで 20ヶ国以上 旅してきたけれど, 韓国は 日本同様, 外食する場合の食べ物の質が かなり高い。要するに, 美味い飯屋が多い。今回は ソウル在住の息子の案内で飯屋, レストラン, 居酒屋など訪れたので尚のこと外れがなく, 정말 맛있어요(「拙者, 若い時に少し韓国語を勉強したことがあって 今もとりあえずハングルを読めはするのだ, チョンマル マシッソヨ)「本当に美味しいです」と言いたくなる韓国料理・韓国の食べ物を堪能することができた。

ではで, 以下は どかどかっと写真の羅列! .. と言っても 今回 食べた物の一部だけど, でもまぁ兎に角, 何から何まで, 全て美味かったのだった 😋

まずは, 

*「まずは」と書いてからナン

ナンは 韓国じゃなくて インドの美味しいパン!

だけど, 美味しそうな料理の動画も撮っているので, そちらに関心ある方は, 本日(2023年4月27日)現在 本 note 編集上 起きている不思議な現象のせいで, 本 note 第4章「韓国 1回目 〜 7回目(動画混じり)」をご覧ください, ご面倒おかけしますが 🙇‍♂️

では!

ほっとけない食べ物, しかしその名は「ホットク」 😋

上の写真は 本 note のタイトル写真に使ったもので, 本 note 前説に書いた通り,

韓国・ソウルに着いた日 2022年10月8日の夜, 同行のカミさんとソウル在住の息子と 3人で 街を散策中に撮った一枚。カミさんが手にしているのは ソウル Seoul のソウル Soul フード *, ホットク。横書きハングルの上段右 2文字が「ホットク」。因みに下段の 4文字は, 日本, 大阪のソウル・フード *, 「タコ焼き」。たこ焼きも 韓国で人気があるらしい。

*これも既に記した通りで, 些か細かいことを念のため書いておくと, Soul Food は元々の英語における意味は「アメリカ合州国南部の黒人・アフリカ系アメリカ人の伝統的料理のこと。日本では「地域特有の料理・食べ物」「郷土料理」といった意味で使われることが多いが, ググったところ, この後者の使い方は日本以外の国でも見られるらしい。

さぁ 続いて, 一気に行きます, 思わず食べたくなる韓国料理「写真展」, ほぼキャプション無し(笑)。

激ウマ 😋
麺は「うどん」(シジャン=市場で食べた)。韓国語でも「うどん」と呼ぶ 😋
上に同じ 😋
この飯屋・居酒屋に入った 🍻 😋
いかにも 🍺 が 進みそう .. その通り!
😋
😋
😋
ご飯を入れて, それから 生卵を落として目玉焼きにして, 締め, 激ウマ 😋 
「何を食っても美味い」状態 😋

チゲ 他, 料理の動画もあります 〜 ご覧になりたい方は, 本 note 第4章「韓国 1回目 〜 7回目(動画混じり)」ご参照, ご面倒おかけしますが 🙇‍♂️

以下の 写真 3枚 は, ソウルを発つ日の朝, 泊まっていたホテルの近くの店で食べた 김밥, カタカナ書きすると多少発音が変わってしまうけれど「キムパプ」, 1984年1月に初めて 韓国を旅した時からずっとお世話になってる 韓国風海苔巻き。うちの 일본사람 = イルボンサラム = 日本人 のカミさん(拙者も 일본사람 だけど, 笑)も ときどき作ってくれる。とにかく, 정말 맛있어요, マジで 😋

😋
😋 😋
😋 😋 😋

なお, 上掲の「美味い」絵文字の数は, 必ずしも「美味」比較優劣を示すものではありません。ボキャ貧になるけど, どれも兎に角, 兎に角が生えるくらい(意味不明だ, 笑)「美味い」食べ物・「美味い」料理だった。

何が一番美味かったかって, それはまた「韓国料理」主題の note を認める(読み方は「みとめる」ではなくて「舌貯める」, いや「したためる」)機会でもあったら書く .. かもしれません。因みに, 「したためる」と読む「認める」は, 文章を書くという意味以外に, 食事をするという意味でも使われます。拙者, 食中毒は御免だけど, 活字中毒なので, 読むのも書くのも好きで, こんなふうに話が脱線して, どんどん文字数が増える。こんなふうに「舌貯めて」いや「認めて」文字が増えても, カネは増えない, カネ貯まらない(あんま面白くないね, キリないから段落キリます)。

本章 冒頭に書いた通りで, 掲載した写真は今回 食べた物の一部。旅から時間が経ち過ぎて, ざくっと写真を揃えるだけで 時間がかかってしまった。

ソウル を歩く, ソウル・マン

綴りが違うってか ♫

もういっちょ ♫

さてさて, 

仕切り直して 〜 ソウル を歩く, ソウル・マン

「ソウルを歩く」写真展。

動画も撮っているので, そちらに関心ある方は, 本日(2023年4月27日)現在 本 note 編集上 起きている不思議な現象のせいで, 本 note 第4章「韓国 1回目 〜 7回目(動画混じり)」をご覧ください, ご面倒おかけしますが 🙇‍♂️

ここでは, まずは, 初日の夜の「ソウルを歩く」 2枚 から。

これは アメリカ大使館の前。

「反米軍基地」スタンディング

歩いてばかりじゃ疲れます。僕はちょっと, 「僕は一寸」 ♫

ひと休み。「僕は一寸」じゃなくて, カミさんと息子と一緒に歩いていたから, 「僕らは一寸」。

ここで「お茶」した。

またまた, 夜の ソウル を歩く。

昼間の ソウル。

ホテルにて, 「トイレが詰まりました」 〜 ファジャンシリ マッキョッソヨ

今回のソウル 滞在中に起きた, ちょっとしたハプニングについて(「起きた」「ハプニング」って何気に被った表現だなぁ)。「ハプニング」というほどでもない, 文字通り「ちょっとした」ことではあったけれど, その顛末みたいなものがわりと面白かったので, ここでさらっと紹介しておきます。

要するに, トイレが詰まった件。ホテルの自室のトイレで用を足した後, 普通に水で流そうとしたら大して使ったわけでもないトレペが詰まってしまったのだった。

何とかしようと 3, 4回続けて 水を流したのだが, 詰まりは解消されない。これは
もうフロントに連絡して対処してもらう他ないと思ったものの, そこは韓国語ほんのカタコトだけでも喋る拙者, これは韓国語で伝えたいと思って, スマホ片手に ググってみた。

いくつか関連情報が掲載されたサイトが出てきたのだが(韓国では節約目的で?水圧を弱くしているためトイレは詰まりやすいとか書かれていたりした), ホテルでそれが起きたらフロントにヘルプ願うしかない, そんな時は,

ファジャンシリ マッキョッソヨ

と言おう, というアドヴァイスを見つけた。ハングルで書くと 화장실이 막혔어요 となるのだが, 兎に角, その意味は「トイレが詰まりました」。

さっそくフロントに電話して, 「ヨボセヨ」(여보세요, もしもし), 「ミアナㇺニダ」(미안합니다, ごめんなさい・すみません .. まぁこっちがわるいわけでもないんだが, 笑), 「ファジャンシリ マッキョッソヨ」

と伝えたのだが, さて, この後がモンダイ。ありがちな話ではあるのだが, カタコトで現地の言葉を何とか操ったものの, 相手の返答が聞き取れない。ってか, 何を言ってるのか分からない。

ただ, ヒントがあった。フロントのスタッフの, 実は韓国語がそんな分かるわけでもないこちらには意味不明な返答の中に, 「エンジニア」という言葉があったのだった。そこで, 「エンジニア」とは些か大袈裟ではと思いつつも, これはトイレの詰まりを直すために誰か「係の者」みたいな人を部屋に派遣してくれるって意味だろうと推測し, こちらからは知ってる韓国語を使って

「ヨギエ?」(여기에 ?, ここに?), 「チグム?」(지금 ?, 今?)

と言ってみた。そうしたらフロントの応答は

네(ネー, はい)だったので, おお, これで大丈夫だなと思い, こちらからは

「カㇺサハムニダ」(감사합니다, ありがとう)と感謝の言葉。

で, その通り, フロント曰くの「エンジニア」が直ぐ来てくれて詰まりを直してくれ(我が家にも一応は備えてあるような道具でやる普通の方法), 一件落着。

本件のコトの顛末を後で韓国語を流暢に話す息子に説明したら, フロントの応答が理解できなくても意味を推測して知ってるカタコトの韓国語で返答して会話を成り立たせたのは「大したもんだ」, みたいに褒められた。まぁ「大したもんだ」とまでは言わなかったが(笑), 要するに グッジョブ 的なニュアンスのことを言われ, ちょっと気分をよくしたのだった。

北村韓屋村を歩く 〜 韓国の伝統家屋の家並み

北村韓屋村(북촌한옥마을, ブッチョンハノクマウル)とは.. ここです。

あいにく雨に降られたけれど, 韓国の伝統家屋が建ち並ぶ地域をゆっくり歩き, その景観を満喫することができた。

李舜臣 将軍 の 像

.. の前で。

李舜臣(이순신, カタカナ書きするなら「イ スンシン」)は, 李氏朝鮮の時代の将軍。16世紀末の日本による朝鮮侵略(1592-93年の文禄の役, 1597-98年の慶長の役)の際, 日本側の豊臣秀吉の軍との戦(「いくさ」!)において活躍した名将。もちろん, 韓国の英雄。

景福宮 2022年10月9日 〜 「閔妃暗殺」 127周年の翌日

今回, 我々(拙者とうちのカミさんと我らのソウル在住の息子)が 景福宮 を訪れたのは, 2022年10月9日。それは(単に偶然だったのだが), 1895年当時 韓国駐在の日本公使であった三浦梧楼の主導により, 景福宮 において時の朝鮮王朝の王妃が殺害された事件, いわゆる「閔妃暗殺」事件が起きた日から 127周年に当たる日の翌日だった。

「閔妃暗殺」とは ..

乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった明成皇后(閔妃)が 1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊公使館警察官日本人壮士(大陸浪人)ら日本人朝鮮親衛隊朝鮮訓練隊朝鮮警務使、高宗の父である興宣大院君派ら反明成皇后朝鮮人共同で暗殺された事件。閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)ともいう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/乙未事変

1895年10月、朝鮮で実権を持っていた親露派の王妃閔妃を、宮中に乱入した日本公使らが殺害した事件。事件の背景には三国干渉によって親露派と結ぶ閔氏が台頭したことに対して、日本が反閔妃の大院君を利用して巻き返しを図ろうとしたことがあげられる。しかし王妃などに対する直接的な凶行は国際的な批判も受け、また朝鮮民衆の反日感情も強まったことから日本は朝鮮での発言権を弱め、かえって親露派が勢いづいた。

みんびあんさつじけん。朝鮮王朝は、日清戦争の結果として 1895年4月に締結された下関条約において、清の宗主権が否定されたことによって、属国としての立場から通常の独立国家であることが確定した。日本は朝鮮に対する強い指導権限を得たと判断し、並行して行われていた甲午改革といわれる近代化政策に介入し、その立場を強めようとした。ところが、直後のロシアを中心とした三国干渉があり、日本が遼東半島を清に返還せざるを得なくなったことで、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。その中心には高宗の王妃として政治上の実権をふるうようになった閔妃(明成皇后、びんひ、ミンビ)がいる、と見られるようになった。

そのような情勢のもと、1895年10月8日 未明、日本公使三浦梧楼は公使館員日本軍の京城守備隊などに日本人浪人を加えて朝鮮王朝の王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った。そのうえで大院君を王宮に入れ、高宗に対し、親露派を一掃し日本の協力の下で政治改革を進めることを強要した。この一連の王妃殺害事件と政権の交代を乙未事変(乙未は当年の干支)ともいう。

https://www.y-history.net/appendix/wh1403-037_1.html

.. と 本章 冒頭から 「閔妃暗殺」とは .. と 相当なスペースを割いて語り始めたものの, この「閔妃暗殺」について歴史上のその基本的な事実関係に関して最低限の基礎知識を持っていた筆者ではあるものの(「ものの」2連発), しかし, うっかりしていた。

実は, 今回 我々が 景福宮 を訪れた 2022年10月9日が「閔妃暗殺」127周年に当たる日の翌日だったことに気づいたのは, 後日のこと。なんと帰国後。

日本に帰国してから, 韓国・朝鮮関連のツイートを眺めているうちに「閔妃暗殺」関連のツイートが目に入り, そこで はたと 127周年翌日だったことに思い当たったのだった。

というわけで, 事前に気づいていたら「景福宮」内に入っていたに違いない我々だったのだが, 拙者は 1984年(ご関心ある向きは本章最後尾にあらためてリンクを貼る過去 note ご参照あれ)と 1988年に「景福宮」内を歩いており, 後者の 1988年は カミさんも一緒で, つまり過去に「景福宮」内を歩いたことがあり, 今回はまぁ外から眺めるだけでいいや, と宮廷内見物を割愛してしまっていた。

*そもそも, 今回 日本を発って 韓国に着いた日は 10月8日, つまり「閔妃暗殺」127周年の日。

以下は, 外からの写真(1984年に拙者が初めて 韓国を訪れた時に撮影した「景福宮」については, ご関心ある向きは 本章最後尾にあらためてリンクを貼る過去 note を参照あれ)。

後で, 遠目から見た(店のテラスから見た)「景福宮」の一部。

微かに写ってる(笑)。

ではでは, 1984年に 初めて 韓国を訪れた時の「景福宮」はこちら。 .. と, またまた過去 note リンクを貼る(笑)。第6章 "初めての韓国で撮った写真, パート 3 〜 ソウル(景福宮, 徳寿宮と南山タワー, 9枚)" の 中にあります。

ハングル記念日 10月9日

10月9日 は, 「ハングルの日」(韓国の祝日)。

韓国の祝日。10月9日。15世紀の李氏朝鮮の王、世宗(セジョン)が 訓民正音(ハングル)を公布した日を記念する。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、世宗が 訓民正音を作成した日として 1月15日を同様の記念日と定めている(チョソングルの日)。

https://kotobank.jp/word/ハングルの日-1698764

1940年に、『訓民正音』の注釈本であり、「訓民正音」公布後、それほどのときを置かずに作成された『訓民正音解例』の原本が発見され、その鄭麟趾の序文から『訓民正音』が 9月上旬に布告されたことが明らかとなった。大統暦正統11年9月10日は グレゴリオ暦 1446年10月9日 である。光復後、大韓民国政府は ハングルの日 を 1945年10月9日 に定めた。1970年には大統領令によって国家公務員が労働を免除される公的な休日となった。

1990年、平日を増やしたい韓国財閥の圧力により「国軍の日(10月1日)」とともに平日となったが、国の記念日としてはそのまま残り、その後の市民運動によって 2006年に国慶日 (국경일) に昇格した。2012年に ハングルの日 の休日再指定案が国務会議を通過し、2013年より再び休日となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ハングルの日#韓国における記念日

というわけで, 我ら イルボンサラム 3人組, 2022年10月9日, ハングル公布 576周年を記念して 世宗大王 のところに赴き, 大王の近くで催されていた ハングル展を見学したのだった。 

この二人は 我々ではありません。

さてさて,

ちょっと脱線 〜 我が家の韓国グッズ(今回の韓国土産を含め)

ざくっと集めてみた(全てではありません)。

まずは 仮面。左と右は, 1988年の ソウル・オリンピック直前に カミさんと 韓国を旅した時に買ったもの。中央は 今回 買ったもの。

ペンダント(1988年 現地で購入), キーホルダー類(今回 買ったものや ソウル在住の息子から貰ったものなども)。

若い頃, 拙者は, いわゆる「開発途上国」から 日本に 産業技術を学びに来る人たちに対して導入研修のプログラム(日本語学習や日本事情理解が主な内容)を企画・実施する仕事をしていた。その頃は 韓国も日本の ODA(政府開発援助)の対象で, 韓国からも大勢, エンジニアなどが 日本に来ていた。そんな彼らから いただいた 贈り物の一部。

昨年, ソウル在住の息子が 日本出張の際に買ってきてくれた土産物。アルコール度数 40度強の酒。しかしこれが飲みやすく, めっちゃ美味かった。既に全部飲んでしまっていて 中はもう空だけど, 記念にとってある。ちょっと変わった形の瓶。

酒に付いてた。高級酒らしい!

さてさて ♫

韓国のヒット曲を楽しんで 🎶

ソウル在住, 韓国企業勤務 兼 音楽ライターの息子の案内で, 「音楽酒場」みたいなところに行った。

ここではないけど(次の機会にはこういうところも!), このライヴハウスの隣りだった,

主に 1970-'80年代のヒット曲を中心に韓国の「懐かし系」ロック, フォーク, バラードなどを流す バーへ(パブみたいな感じかな)。曲については リクエストを受けつけてくれます。

1970年代初期の曲もかけそうだったので, カラオケで何度も韓国語で歌ったことがあり, 1988年の我らが結婚式・披露宴の際に(下掲リンク先 note 第3章 "Track listing" で触れている) 

韓国の人に歌ってもらった曲でもある懐かしの "사랑해"(サランヘ)をリクエストしたのだが, 

*それはこの歌 ♫

1967年、南珍(남진)による「カスマプゲ」(가슴 아프게)が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児もデビューを果たしている。1971年にはフォークデュオのラナエロスポ(라나에로스포)による「サランヘ」(사랑해)が、1973年にはパティ・キムによる「離別」が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤の名を高めた。特に「離別」は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。1976年にはチョー・ヨンピルによる「釜山港へ帰れ」が大ヒットする。

https://ja.wikipedia.org/wiki/トロット#朴正煕時代

残念ながら "사랑해" の音源は置いてなく, リクエスト実らずだった。でも息子がリクエストした曲はちゃんとかかってたな。

何はともあれ, 美味い料理を食し, 酒を飲み, 韓国のヒット曲を味わい, 楽しい夜でした 🎶 … で, 遅くなってしまい, 地下鉄の終電を逃し, ソウルで深夜にタクシーをつかまえるのは至難の業, 結局, カミさんと二人で 夜更けのソウルの街を歩いて帰ったのだった。

宿のネオンが見えてきて安堵(笑)。

さてさて 🎶

韓国の音楽の今 🎶

.. を知るなら, この連載を。

漢江沿いをサイクリングし, ソウル市街を眺め, 歩き, 夜景を眺め..

日本に戻る日の前日, ソウル在住の息子とうちのカミさんと一緒にレンタサイクルで 漢江沿いをサイクリング, そして 夕方には 息子の 여자친구 と会って 会食(「チョンマル マシッソヨ」の韓国料理とビール!), その後はそのまま 4人で ソウルの街の夜景を楽しみながら 漢江沿いを散歩。良き日, 素晴らしい夜でありました。

*動画も撮っているので, そちらに関心ある方は, 本日(2023年4月27日)現在 本 note 編集上 起きている不思議な現象のせいで, 本 note 第4章「韓国 1回目 〜 7回目(動画混じり)」をご覧ください, ご面倒おかけしますが 🙇‍♂️

本章の以下は, 自分たちを写した人物写真を除き, 同日 拙者が 漢江沿いで撮った写真の全て(たぶん「ほぼ全て」, 笑)。

一部 カミさんが撮った写真も加え(ともにスマホ写真), 撮影時刻がちょっと前後したところもあるけれど, ま, ケンチャナヨ! 

さて, 本 note の最後は, 漢江沿いで 日本と韓国の歌手がデュエットした歌を ♫

調律 조율 〜 折坂悠太 오리사카 유타 and イ・ラン 이랑, LIVE recording at 漢江 in Seoul, Korea ♫

イ・ラン については, 

ではでは, 


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