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【釜石の奇跡を見つける】村田信之さんに話を聞きました【一つのピースに】

蓮舫議員の元夫・村田信之氏が『デイリーチャンネル』のインタビューに応じてくれました。

まえがき=記者として観葉植物以下になってしまう=

 蓮舫参議院議員が今月離婚したと報じられた。すると、テレビや新聞、週刊誌といったマスコミだけでなく、ツイッターやネットニュースなども巻き込んで、大変な騒ぎとなった。

 騒ぎの中で注目を浴びたのは意外と蓮舫議員ではなく、この人じゃないだろうか。元夫の村田信之氏である。

 テレビなどの影響で、この人には「家族いじめにあっている人」というイメージが伝わっているのではないか。Yahoo!ニュースのコメントなどでは、「家族に「ペット以下」と罵られ、子どもたちにもいじめられているような姿が、テレビでは印象的だった」「離婚して当然。よく耐えた」というようなコメントを見た方も少なくないだろう。

 筆者も「なるほど。村田さん。よく耐えたんだな」と思ったと同時に、記者として「本当にそうなのか?」とブラウン管(地デジの時代なのに)の向こう側に思いを馳せる。

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 名門・早稲田大学で教鞭を取る村田さん。調べていくうちに、柔らかい笑顔でテレビに映る姿を見たり、SNSで自分の頭もあえて見切れるように自撮りしたり――。筆者のイメージは「何もできないから蓮舫議員にしばかれるおじさん」ではなく「頭が良くてちょっぴりお茶目なおじさん」というように変わっていく。

 「いやあ、分からない。こうなると本人に直接聞くしかないか。記者なのに聞きたいことも聞けないようだと、「観葉植物以下」になってしまう」という訳で、村田さんに取材交渉をしてみると、なんと快諾して頂いた。

 釜石に出向くことも頭をよぎったが、コロナ禍ということで今回はzoom取材ということになった。村田さんも岩手県の釜石市に引っ越されてすぐということもあり、自粛期間中らしい(9月上旬に解除予定)。


 時は来て、今日の昼過ぎ。村田さんに東北班が話を聞いた。

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村田さんと釜石=きっかけはラグビー=

――なぜ釜石にいらっしゃったんですか。
村田氏「なぜかというと、離婚があったからなんです。けど、それ以前になぜ釜石(という地を選んだ)かというと、来年でちょうど東日本大震災から10年じゃないですか。それで、釜石の「次の10年」のために「自分が何かできないかな」って思ったんですよ」

――釜石とはつながりがあったんですね。
「私はラグビーをやっていまして。2011年に清宮克行さん(日本ラグビーフットボール協会副会長・日ハム清宮幸太郎選手の父)が、「村さん。行こうよ」と。それで釜石に連れてきてもらったんです。釜石シーウェイブス(ラグビーの名門クラブチーム)や釜石市に支援物資を届けてからですね。釜石との関係が始まったのは」

――ラグビーから始まったんですね。
「はい。ラグビーから始まったんですよ。うちの息子(琳さん・VOYZ BOYメンバー)が当時中学生でラグビー部だったんです。彼の学校のラグビー部の合宿も釜石でやっていくことにしたんです。そうした準備をする時に釜石の人に手伝ってもらい、どんどん友達が増えていきました」

――当時ですと、宿泊場所はどうしたんですか。
「宝来館ってあるじゃないですか。震災の被害を受けて、営業はしていなかったんですけど、頼み込んで泊めさせて頂きました」

――移住して成し遂げたいことは。
「これからどんなことができるかは分らないんですが、一つは教育に携わりたいです。実は、何か計画があって来た訳では無くて「先に動けば、道は開ける」ということで、まずは「覚悟を決める」ということでここに来ています」

――釜石の人からは歓迎のムードはありましたか?
「知った人からは次々とアポイントが入っています。色々な話を貰っているんですけど、何しろ東京から来たもんで・・・。「一番危険な所から、一番安全な所」に来ているようなもの。2週間は自粛しないといけないでしょ。8月19日に釜石に来ているので、そこから2週間ですね。「一度お目にかかりたい」と言われたりもするんですけど「いやいやいや」と(笑)。「東京の人間としては、今会うってのは」って感じで。「電話じゃ駄目ですか?」「zoomじゃ駄目ですか?」って答えている感じです」


――社会では生活様式や働き方が変わっています。
「緊急事態宣言が解除されるじゃないですか。会社とかだと、中堅社員以下の人達は「リモートで」ってなるけど、それより上の人は「人と人とは会わなきゃダメだろ」という風ですよね。冗談言うなと。でも、釜石移住に踏み込んだ理由もそこにあるんですよ」
「東京でリモート出来るなら東京にいる必要って全く無いんじゃないかって。そうすると、どっかに移住してもなんなりしても構わないのではとなる。ただ、「家族はどうするんだ」と」

――蓮舫さんについて。
「いつかは僕が移住とか、地方に行きたいという話はしていて。うちのカミさんが国会議員で東京都選出なんですよ。なので、東京にいなきゃいけない。だから移住はできない。で、カミさんから「離婚しましょ」って言われて。特に、嫌いになったわけでもないし、パートナーが変わる訳ではないけど。感謝しています」

――このタイミングになった。
「でも、よくよく考えたら、今しかチャンスないなって。「新しい働き方になっていくよ」とか皆言うけど、全然価値観が変わっていないのが現実。動いている人は本当に少ない。でも、じゃあ自分でそうは言いながら、「自分も変わったのかよ」と頭の中で考えていたんです。実行伴っていないじゃいかって。自分が変わるところを見せてあげないといけないでしょと。」

――振り返り、家族の仲は良かったと思いますか。
「家族の仲はすごい良いですよ。今でも娘とはLINEでやり取りしていますよ。カミさんともしていますし、息子ともしていますよ。グループLINEもありますし」

――村田さんの世間でのイメージについて。
「結局、家族の中では私がイジられキャラなんですよ。「厳父のような母親と慈母のような父親」でしょ。だから、子どもたちも「可愛いペットたちよりもパパは下だよね」という風に言いやすかった。そういうとこを最近ではSNSやテレビを見て、「ああ、酷い扱い受けているのね」ってストレートに捉えられた」

――悲壮感は無かったということで良いですかね?
悲壮感無し!!無いですよ。ワクワク感はあっても、高揚感はあっても、悲壮感は無いですよ」

――その高揚感というのは、釜石でチャレンジができるからという高揚感なんですか?
「そうですね。これから釜石からやったことないことができるということが始まるので。でも不安と言えば、不安ですよ。でも、ねえ・・・。チャレンジできることの方が大きいですけどねえ」
「僕の力で何をするか。僕の力で何が出来るかではないんです。釜石が元々持っている力みたいなものに、僕がこうスッと入ることが難しいというか。そこにワクワクしますよね」

釜石は「希望」

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――釜石とは。
「今日のnoteにも書いたんですけど、釜石って東京大学の「希望学」の研究対象なんですよ。なんで東京大学が釜石を研究対象に選んだか。それは、戦後の栄枯盛衰の象徴的な街であることからです。昔の写真なんか見ますと、映画館なんかもありますから。社宅も残っていたり、小さい飲み屋街もあったり。大層栄えた街が、周辺産業が無くなった時に人が出ていくわけですよね。人口が減って、若い人が減って、高齢者が増えて。そうすると、この街の人達は「どこに希望を見出していくの?」って、調査になった」
「調査を始めたのは2006年かららしいんです。そんななか、2011年を迎えて。そこから釜石は立ち直っていく。そこから立ち直っていく釜石の希望の持ち方って、半端じゃないと想像しますよね」

――被災後の釜石
「4年に1度のラグビーワールドカップの試合をやるんですから。ここで(昨年9月25日、フィジー対ウルグアイ戦を開催)。スタジアムを作れたことも、信じられないでしょ。やっぱり何かあるんですよ釜石って。偶然じゃなくて、釜石の人達が次々と奇跡を起こしていくんですよ

教育者としての一面

――教育面で、釜石で何ができそうですか。
「高校の先生を紹介してくれる方もいます。「市内の高校のイベント、どうですか?」とか言って下さる方もいたり。これからは中学校とかのつながりもあるでしょうし。早稲田大学の先生ということは変わらないので」

――大学と被災地とのつながり。
「震災以降、僕ら以外にも大学生とかいっぱい入ってきましたけど、これから先、新たな10年はどんな展開なのか。もしかしたら、他の大学とかでは東北とは接点を持たなくなっていくかもしれないし。少なくとも私が授業で持っている学生というのは、こっちを見るチャンスはたくさんあるわけです。外から与えられた希望ではなくて、内発的な希望、湧きあがってくる希望が出るようにできれば」

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――講義について
「オンラインでできることと、対面で無ければできないことの2つあると思います。オンラインでやった方が効率良いものはこっちでやる。全国の大学でもオンラインでやった方が効率が良い授業があることはわかっています。とはいえ、対面でやるものは、安全設計をしながら対面でもやらないといけないだろうし――」
「現在、大学では3パターンが検討されています。オンラインと対面のハイブリッド型、オンラインのみ、対面のみの3パターン。これが、秋からはじまる2学期でどのようになるかというところを教授陣が考えているところ」

――世界と日本の大学について。
「これからは早稲田大学だけではなく、世界中の大学が変わってくる。今までは論文が大切とされてきた。もちろん、論文の重要性が下がるということではなくて、教育の効果を当てられるか。新型コロナウイルスの影響は今のところ収まらないわけですから、ICTを使って、どうやって安全に、接触を減らしていくか。そういう教育ですよね。今まで日本の大学って世界的に見て遅れていたかもしれないが、今は横並びと見ても良い可能性すら出てきました。教育工学を専門でやっている人も東京にはいるけど、地方でそれを実践できるかどうか。実際、先生が地方に散らばっていた方が良いわけですよね。東京一極集中でなくて、地方に分散して、教育の質を均等化できるチャンスでもある」

――今回の村田さんの行動は、例えるなら「釜石に村田研究室がある」みたいな感じですか?
「そういうことですね。私たちは大隈塾という活動をしていますが、これは学生たちが自ら考えるものです。夏休みでも大隈塾ゼミというものを立ち上げて、基礎講習をしてというのを、学生が自分達でやっていますよ」「ほかにも就活を終えた3、4年が就活についてを教えたり。逆に、就活していない学生たちが、「何故、就活をしないのか」というのを、学生たちにリベートする場とかもあります。学生は自分達で動いています。僕らでもやるぐらいだから、意欲ある学生たちは自分達でやりますね」

――学生が自ら考えられることについて。
「アクティブラーニングの成果が出ていると考えています。いきなり大学に入ってアクティブラーニングができるというのではなくて、高校の先生が頑張ったものが大学で発揮される。なんか、上手い汁を吸うように見えるかもしれませんが(笑)。今も、教育イベントとかが毎日のようにオンラインで開催されていて、顔を出すんですけど、日本は大学、高校問わず、先生は考えていると思いますよ」

釜石の1つの「ピース」になりたい

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――村田さんが来ることで岩手の教育も変わりますかね。
「僕が来たらどうにかなるという訳では無いんです。でも、「自分がジグソーパズルの1ピースを持ってきた」という感じですね。自分という1ピースが来たから誰か、もう1ピースが「釜石に行ってみようか」ってなって、それが何ピースか揃えば、絵がハッキリとしてきて、そうするとまた人がやってくる。ということがあるかもしれないですよね」
「釜石というところのジグソーパズルはまだ少なくて。僕が1つのピースとしてハマったら、もう1ピースがはまっていけば。そうすれば北上とか他の市にも影響が出てくるかもしれない。誰か1人がとても凄いことをするんじゃなくて、空いているピースがどんどん埋まっていく。そういう感じですよ。1人のカリスマが「おらおらおらぁ!!」という感じではなくて」

――これからずっと釜石に住む予定ですか。
「移住ですからね。僕というか、うちの家系の男性は60代真ん中で寿命が尽きるんですよ。で、今僕54歳なんですよ。だから、あと10年はいるのかなって。移住してきたんですよ。これ(zoomで見えている部屋)もホテルじゃなくて、友達が探してきてくれた部屋ですよ」

――友達もいらっしゃるということで、仕事以外の生活も楽しみですか。
「そうですね。楽しみしかないですね。ただ、まだ冬が来たことないので。今までは東京から1泊2日で来るとかそういうのしか経験してないですから」


――最後に釜石で成し遂げたいことを教えて頂きたいです
釜石の「次の10年」に参加したいです。2011年から2020年は通いでしたけど、これからは釜石の現場にいて、釜石の希望をはっきりと目に見えるようにするための1ピースでありたいですね」


編集後記 

 まず、新聞でもテレビでも雑誌でもない、noteの一ライターのインタビューを1時間も受けてくださった村田さんの懐の深さに何よりも感謝しております。

 その人柄が沢山の人を惹き付けて巻き込んでいくんだろうと感じたインタビューの時間でした。

 ラグビーの街・釜石と村田さんとの出会いはやはりラグビーで。しかし、そのつながりを強くしたのは教育で、これからの釜石の10年を釜石のご出身じゃない村田さん自らが「1ピース」として考えていく姿勢は、心に響きました。

 果たして、自分はどこかで1つのピースになれるのだろうかと、記事を書きながら考えてしまいました。

(文責:デイリーチャンネル編集部)




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