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アメリカから来た子。そして、ポルトガルから来た子。

私が小学校一年生の時、初めてクラスに転入生が来た。

初めての転入生ということにも驚いたが
帰国子女ということにも大層驚いた。
ついこの間までアメリカに住んでいたらしい。

 
なんでアメリカに住んでいるようなすごい方が
こんな田舎の学校に来るのだろう?

私は疑問で仕方なかった。
うちの小学校は田舎だし、クラスも各学年一クラスしかない。
学校のそばには田んぼ位しかない。

 
そんなところに、何故わざわざ……?

 
今よりも小学生の頃の方が、私にとってアメリカは遠く偉大な場所だった。
手の届かない、巨大な国だった。

 
だから、アメリカ生まれでアメリカ育ちの女の子というパワーワードに
私達クラスのみんなはワァワァした。

「どんな子なんだろう?」

みんなの興味や好奇心は凄まじかった。

 
 
先生が黒板に名前を書き、一人の女の子Aを紹介した。
目がパッチリしていて、黒髪が長く美しかった。
白いワンピースには、セーラー服のような襟がついていた。
品のある雰囲気が伝わった。
やはりアメリカ生まれは違うなぁと思った。

 
 
Aちゃんはクラスのみんなにお菓子を配った。

原色でカラフルなビーンズと英語のパッケージに入ったクッキーは
いかにもアメリカな感じであった。
売っているのは見たことがないし、見た目自体が日本からかけ離れている。

 
 
家に帰ってから、「Aちゃんがくれたんだよ!アメリカのお菓子だって!」と家族に話し
ウキウキしながら私はお菓子を口に入れた。  
一口噛んだ瞬間に、私は顔をしかめた。

 
…ん?なんだこれ??

 
ビーンズはまずかった。
クッチャクッチャと噛み、なんとか飲み込んだが、それ以上食べたい味ではなかった。
見た目はカラフルでテンションが上がるのに、まさか口に入れてからこんなにテンションが下がるとは。

クッキーも味が合わなかった。
パッケージはお洒落なのに、それは私が知っているクッキーの味ではなかった。

 
 
姉や母も好みではない味だった。

家族と、「……アメリカのお菓子って、思ったより美味しくないね。」と言い合った。

 
 
 
Aちゃんはかわいかったこともあり、みんながワイワイと集まった。
やはりアメリカ生まれでアメリカ育ちは大きい。
みんなは気になることだらけだ。

 
私は単純に、「英語話せるんだよね?英語教えて。」と話しかけた。
「例えば、海はseaよ。空はsky。」と教えてもらった。
私はAちゃんから、seaとskyを聞いて覚えた。

 
 
 
Aちゃんは学校に慣れていったように見えたが、転入から半年たらずで転校していった。
皆は呆気にとられた。  

アメリカ生まれでアメリカ育ちの女の子は 
幻のごとく、あっという間に去った。

 
入学式に出ていないAちゃんとの写真は遠足のみである。

私はたまたまAちゃんと同じ班だったので 
全体写真だけでなく
Aちゃんと二人で映っている写真が一枚だけ残っている。
だから確かにAちゃんはうちの学校にいたのだと
それを見ると思う。

 
彼女とは誰も連絡先を交換しなかった。
だから今どこにいるのか知らない。

確かまた父親の仕事の都合でアメリカに戻るだか、遠くの他県に行くだか言っていた気がする。

 
次元が違うように、当時は感じてしまった。

 
 
 
 
 
そんな私が小学校五年生になり、またまた転入生が来ることになった。
ポルトガル人である。

 
ポ、ポルトガル!?

  
私は思わず世界地図を見た。
アメリカとは異なり、ポルトガルがどこにあるのかさえ分からない。

 
先生に連れられてきた男子は碧眼で金髪で肌は白く、背が高かった。
イケメンであったが、仏頂面だった。
年上に見えるほど、大人びた様子だ。
ジャンパーもカーキ色でお洒落だった。


彼はウィリーと言った(仮名である)。
フルネームはカタカナでめちゃくちゃ長ったらしい。

ウィリーは何も言わないし、私達も拍手で出迎えつつも
お互いに何とも言えない間があった。

 
 
ウィリーは日本語が全く話せなかった。
母国語はポルトガル語であり、英語さえろくに話せなかった。

 
私が小学校時代は英語の勉強は必修ではなかった。
私は個人的に公文で英語を習いだしたが
習いだしたてなのでろくに分からない。

ポルトガル語なんて、論外である。
おはようさえ、何と言えばいいか分からない。

 
 
ウィリーはクラスに馴染めなかった。

私達も上手く関われなかった。担任さえもだ。
せめて英語ができたならまた違かったろう。
どうにも上手く関われなかった。
言葉が通じなくても、スポーツや遊びで交流…
も難しかった。

 
ウィリーは固く心を閉ざしていた。 

言葉云々もあったのだろうが
おそらく、好ましくない転入だったのだろう。

 
 
ウィリーには一歳上の従兄弟と、三歳下の妹がいた。

ウィリーはいつも従兄弟といた。
従兄弟の方は明るく社交的らしく、笑顔が見られた。
ウィリーは彼といても大声で笑いはしなかったから
大人しい性格だったのかもしれない。

 
ウィリーの妹は日本語がいくらかできた。
私は色んな学年で給食を食べる、仲良し給食の時間に
たまたまウィリーの妹の隣席だった。

 
ウィリーの妹とは思えないほど 
彼女は明るく、人懐っこかった。
日本の給食は合わないらしく、ご飯は食べられなくて、パンをよく食べていた。

学校給食は残してはいけないルールだが
ウィリー達三人は免除された。
誰もそれを文句は言わなかった。

 
ポルトガル人なのだから仕方ない。
そう思っていた。

 

 

ウィリーとは、中学校に入学してクラスが離れ離れになり
ますます私は関わらなくなった。
廊下ですれ違うほどだ。

ウィリーの担任の先生の机には、ポルトガル語の本が置いてあったが
中学校に入学したからといって
ウィリーが学校に馴染むことはなかった。

 
ウィリーは小学校も中学校も休みがちになり、中学校を卒業してからどうなったかは分からない。
従兄弟の方は確か同じ中学校には進学しないで、小学校卒業を機に引っ越したのだと思う。

妹の子は学校を休まずに通っていたと噂で聞いた。

 
だが、噂だから、実際はどうだったかは詳しく知らない。

 
 
ウィリーの時、言葉の壁は厚いと感じた。
もしも言葉が通じたらまた違かったのだろう。

私が小中学生の頃、まだみんなパソコンや携帯電話がなかった時代だから
翻訳機能を使えなかった。
英語ならまだしも、ポルトガル語に精通している人は誰もいなかった。
大人も。先生さえも。

 
 
もしも私も小学校五年生で日本語も英語も通じない外国の田舎に転入しなければならないとしたら…
と考えたら
私は心底ゾッとした。
なんて恐ろしいだろう。

 
Aちゃんは違う。
アメリカ生まれでアメリカ育ちでも、両親は日本人だったし、日本語が流暢だった。

でも、ウィリーは見た目はいかにもな外国人で
日本語も英語も通じず
使えるのは
こちらではマイナーなポルトガル語だけだ。

 
ウィリーの境遇には同情したし
想像以上の孤独だったろうが
私にできることはなかった。


 
 
 
 
 
この前、甥っ子の運動会に行った。
姉は保護者である前に、保育士である。 

運動会の日、姉は保育士として走り回っていた。
だから甥の写真撮影やビデオ撮影は、毎年姉以外の家族が行う。

 
幼稚園の先生や保育園の先生は、全員がユニフォームを着ていた。
だからすぐに、誰が先生か分かった。
先生の中には、外国人の方がいた。

 
姉「園児に英語教える先生だよ。」

 
私「時代だな。私らの時はそんな先生いなかった。」

 
姉「日本語もできる先生だけど、園の方針で先生同士は英語で会話しなきゃいけないんよ。」

 
私「かっこいいな!外国人と英語で会話か!どんな話をするんだ?」

 
姉「……………HelloやSee you。」

 
私「ちょ!?お主!?私より英語の成績良かったやないか(笑)」

 
姉「英語の成績と英会話は別物やん。大体、私は日本人とのコミュニケーションも苦手だ。ともかみたいに友達多くないだろうが。」

 
私「私も特別友達多くはないが、まぁ姉よりは友達多いわな。」

 
 
大人になっても、言葉の壁は厚い。
私や姉は英会話が苦手であった。

 
 
  
 
 
私とは対照的に、親友や以前付き合っていた彼氏は海外によく行っていて、英語が得意だった。

一緒にいる時に、外国人が困っていたりすると英語で積極的に話しかけ
親友や彼は雑談をしていた。

私がいない時も、よくそんなことをしているらしい。
異国の地にいる外国人の方々は多分
日本人に英語で気さくに話しかけられたら嬉しいだろう。

 
 
親友も元彼もすごいなぁとは思うが、見習って勉強したいとは思わなかった。
私は知識を深めるなら日本語や手話に興味があるからだ。

 
 
seaやskyに感動していた小学一年生のあの頃
まさかその20年後に仕事で手話を使うようになるとは思っていなかった。

 
親友や元彼は英語で話せても、手話では話せない。

お互いに自分の良さを高め合えれば
それで良いと思う。

 

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