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時間と心の摂理

<前略>ふと下書きを恐る恐る覗いてみると、私が過去書き終わらずそのまま放置しておった記事が無惨にもかなりの数残っておりました。どうにも書き始めるところまでは良きですが、その後が続かないというのが悲しいところでございます。当記事は、少し前にミヒャエル・エンデ『モモ』を読んだ感想を書き記そうと孤軍奮闘した結果おざなりになっておりました。若干固い内容になっておりますが、悪しからず。

 物心つくと、とにかく何かせずにはいられなかった。

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 取り残される、というよりは限られた時間(人生は短く芸術は長い!)の中で、どれだけ自分自身が多くのことを詰め込めるかってすごく重要だと思っていた。だからこそかつての自分は、何もしていない時間があるなんて考えられなかったし、何かに追い立てられるようにして毎日を忙しなく生きていた。

 それはきっと、昨日よりも明日、明日よりも明後日の自分の方が、確実に成長していると思いたかっただけだ。

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 電車に揺られる時間が苦痛だという人も多いけれど、私にとっては電車通勤の時間こそ自分の世界に没頭できる時間だ。

 ただひたすら本を読み続ける。コロナで友人に会える機会もぐんと減ってしまったけれど、ここぞとばかりに家では映画を観て本をひたすら読んだ。

 そんな中、ミヒャエル・エンデの『モモ』を久しぶりに読んだ。なぜだかハッとさせられてしまった。『モモ』の世界に出てくる時間どろぼうは、着実に私の心にも住み着いている。昔は単なるファンタジー小説としかおもわなかったけれど、改めて読んでみるといろんなことに気づかされる。

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■ 『モモ』のあらすじ

 改めて、『モモ』を読んだことのない人もいると思うので、簡単にあらすじを書いてみる。

<あらすじ>
 町はずれの円形劇場あとに、突如として現れた小さな少女モモ。不思議なことに、町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸せな気もちになる。そして子供たちからも、モモは絶大な人気を誇っていた。
 
 町の人たちは平穏な暮らしをしていたのだが、そこへある日時間貯蓄銀行からやってきた「時間どろぼう」たちが現れる。全身灰色の衣装に包んだその奇怪な男たちは、言葉巧みに町の人たちの心を掴み、あれよあれよという間に人々から時間を搾取することに成功する。

 時間どろぼうによって時間を奪われた人々は、次第に心の余裕を無くし何かにせき立てられるように生きるようになる。

 『モモ』はどちらかというと平易な言葉が使われており、小学校高学年向けの児童小説というジャンルに括られているが、内容的には大人もじっとりと考えさせられるようなストーリー展開となっている。

 ずいぶん昔に読んだことがあったけれど、その時はただ深層を理解するだけの力がなくて、私の中では単なるファンタジーのような立て付けだった。それがいざ自分が大人になってから読んでみると、私が知らず知らずのうちに失ってしまった、あるいは捨て去ってしまったものの存在を嫌でも痛感することになったのだ。

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■ 時間と生活

なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。(岩波 p.75)

 私たちが今生きている時間は、残念ながら限られている。誰かが不老不死の薬を見つけない限りは、必ずこの世に留まる上での終わりが来る。それが早いか遅いかというのは、その人次第。限りある時間だからこそ、その中で人々は毎日慎ましく、そして必死に生きているのだと思う。

 「慎ましく」生きるという上では、どこか自然と共存して生きるような考え方がきっと日本古来からあったはずなのだけれど、どうしたわけかいつの間にかそうした考え方は隅に追いやられることになる。

 第二次世界大戦後に、高度経済成長の波がやってきて、私たちは少しでも自分たちの暮らしを良くするために必死で働いた。確かにともすれば、私たちの生活はとても豊かになった。ところが、それと引き換えに多くの日本人は心の余裕を無くしてしまった。

 物語の中で、「時間どろぼう」に時間を奪われてしまった人たちも、かつての私たちと同じように生活における余裕を無くしていく。かつてのんびり暮らしていた町の人たちの様子がだんだん変わっていくことに心苦しさを感じるようになったモモは、なんとかしてみんなが目を覚ましてくれるように奔走する。

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■ この世で大事なことは一つだけ

 集会を開いて、みんなの心を取り戻そうとするも、モモの企みは灰色の男たちによって阻まれる。「時間どろぼう」はなんとか邪魔者であるモモを自分たちの側に取り込もうと悪魔の囁きを言うのだ。

「人生で大事なことは一つしかない…(中略)それは、何かに成功すること、一角のものになること、たくさんのものを手に入れることだ。他の人より成功し、偉くなり、金持ちになった人間には、その他のものー友情だの、間の、名誉だの、そんなものは何もかも、一人でに集まってくるものだ。君はさっき、友達が好きだと言ったね。一つそのことを、冷静に考えてみようじゃないか。」(岩波 p.127)

 成功すること、お金持ちになること、豊かになること。それらのことが人生で一番大切なことだと、時間どろぼうは力説する。一方こうした捉え方は、最近の就労環境の改善活動でも自明のことのように、見直されつつある。私自身も、どちらかと言うと死ぬほど働いてたくさんお金をもらえるよりかは、ほどほどに働いてほどほどのお金をもらって、好きな本を読めれば最高と考える人間だ。

 とはいえ、そんなふうに考えつつも、冒頭に触れた通りどうしても自分の時間は有限であるのだ、ということを折に触れて意識してしまう自分が情けなくなる。このただ消費する時間を、他のことに使えたらどんなに効率が良いだろうか! 

 でも、「効率性」って一体なんなのだろう。虫も動物も鳥も人もみんな異なる時間軸を持っていると同じように、人だって本当はみんながみんな異なる時間を持っているはずなのに。それなのに、なぜか早め早めに行動する人に遅い人はペースを合わせなければならない。「効率性」なんて、ただのまやかしのような気もする。

 会社という組織に在籍している以上、合わせなければいけないのかもしれないけれど、時々少し、いやかなり窮屈になる。

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■ 星の時間

 作品の中でモモを手助けするべく現れたのが、マイスター・ホラという時間を司る賢者。彼は<どこにもない家>の主人で、唯一「時間どろぼう」に争う術を持っている。彼の家の周りには「星の時間」という特殊な時間が流れ、<時間の源>に咲く時間の花という美しい植物が咲き誇っている。

 マイスター・ホラは、モモに向かってそっと言葉を発するのだ。

「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのと同じに、人間には時間を感じ取るために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じ取らないようなときには、その時間はないも同じだ。」(岩波 p.211)

 ああ、そうか私たちは「効率性」と名の下に、せっせせっせと働くことで時間を有意義に使えていたと思ったけれど、そこに自分のきちんとした思いがないまま生きている限り、それではきちんと「生きている」といえないんだな、とその言葉を読んだ瞬間、悟ってしまった。

 ちなみに、私がこの作品の中で一番好きなのが、マイスター・ホラが飼っているカシオペヤという亀。男だったら背中で語れ!という感じで、甲羅に自分の言葉を表記し、モモを黙って導くのである。

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■ 終わりに

 というように、本作を読んで自分としても色々考えさせられることがたくさんあった。

 一方で、それでもどうしても、時間の概念に囚われてしまう自分がもどかしい。でも、それを無理に変えようとしてもうまくいかないであろうこともわかっている。だから、今から少しずつ、ゆっくりでいいから自分の本当に生きたいと思う道を見つけて行けたらと思う。

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 ああ、バターと蜂蜜をたっぷり塗ったパンが食べたくなってきた。

(追伸)

 今回触れる機会がなかったけれど、同じようにモモの友達である掃除夫ベッポと観光ガイドのジジも人間らしくて好き。

** おまけ **

 今回の記事を書くにあたり、少し参考にしました。今は亡きミヒャエル・エンデさんのインタビューも載っていて、今年買ってよかった本の一つです。


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