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鮭おにぎりと海 #8

<前回のストーリー>

一種独特の匂いが、鼻をつく。どこか据えた匂い。あたりは砂埃が舞っていて、そして車やバイクが所狭しと立ち並ぶ。こちらが日本人だとわかるや否やどこからともなくわらわらと這い出してくる。

インドは、ひどく抗いたくなるような、劣悪な状況がただ無造作に広がっていた。だが一方で、何故だか無性に人を引き寄せる国でもあった。相反する感情が、押し寄せていく。

通っていた大学はミッション系の学校だったのでキリスト教に関する授業はあるにはあったのだが、正直なところ神様とは縁遠い場所に俺はいたのだ。

元々神様の存在なんて、俺は身近に感じたこともない。お祈りを捧げる習慣だってない。キリスト教の授業なんて、いわば一般常識として世界にはこんなものがあるのかくらいのことを考えていたのだ。

それがどうだ。何故だかインドに赴いたときは、神様の存在がひどく近くに感じられたのだ。神秘的という言葉とは違う。ただ平然として、その場に当たり前のように神様がいるという感じなのだ。どこか安い食堂に行っても、一度だけ奮発して宿泊した高級ホテルもみな神様に対する思いは同じようだった。

彼らにとっては、信仰を示す事が生きていることの証だとでも言いたそうな雰囲気だった。

♣︎

神様がいるのであれば、人間皆平等とでも思いたいところではあるのだが、インド人の大半が属するヒンドゥー教はそうではなく、原理原則はきちんとした階級が然として存在しているのだそうだ。勝手に神様の前では皆平等だと思っていた俺からしたら、その感覚は奇妙だった。

そしてインドには主にヒンドゥー教徒とイスラム教徒がいて、長らく宗教の違いで争いをしてきたというのもまた理解しがたい話だった。例えて言うならば、関東の人と関西の人がお互いの持つ文化の違いを受け入れる事ができず、どちらが正しいかを闘うことで証明する、といった感じだろうか。

まあ現実的に考えると、そういった話は馬鹿げていると思ってしまうのだが、想像以上に宗教の違いは根が深いらしい。己が信ずるものに対してどうすれば相手を説得し、同じように信じさせる事ができるのか。そのことをはっきりさせるためにインドの人たちはこれまで文字通り血みどろの争いを続けてきたのである。

♣︎

インドで旅をしている最中、たまたまバスで隣り合った現地の男性と喋る機会があった。名をカーンと言った。インドで有名な俳優と同じ名前だそうだ。

俺は高校と大学で学んだカタコトの英語をひっさげて、できる限り自分が気になっている事をそのインド人の男に対してぶつけたのだ。「君たちは生まれた時点で、自分の階級が決まっていることに嫌にならないのか?」と。

それに対して彼はさっぱりとした顔で言う。「決まっているからこそ、生きる事が楽になる」彼もひどくカタコトだったので、非常に理解しやすい言葉だった。理解はできたが、彼の言葉が腑に落ちなかった。「どういうことだ?」と投げかける。

「たくさんの道があると、その度にその先どうすれば良いかきっとわからなくなる。その点、階級が決まっていることで自ずと自分が進むべき道も見えてくる。それってとっても幸せなことだと思うのよネ」

そのことを聞いたとき、目から鱗が落ちた思いだった。確かに思えば日本にいると、階級は時代錯誤となって誰もが自分の好きな道を選ぶ事ができる。だがそれによって、いかに自分の進むべき道を失っている人間が多いことか。

自由であることは自分で何もかも決められる事ができる反面、ひどく不自由だ。そう自由と不自由さは一見対義語のように思えるのだが、実はそうではなく表裏一体なのではないか。自分で本当は決められるはずなのに、でもそれをうまく自分で見つける事ができずに不自由さに苛まれる。そして、他の人から勝手に型にはめられてもがき苦しむ。

ところが、ヒンドゥー教では生まれた時から型にはめられているからある程度割り切れる。一方、日本人は初めから型にはめられていない状態で生まれてきて、途中から足かせをはめられると抵抗をしようと試みる。結局そこから抜け出せなくて苦しむのではなかろうか。何だか、カーンの話を聞いて珍しく考え込んでしまったのであった。

インドの空気はひどく薄く、気づけば息が切れていた。

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