ビロードの掟 第32夜
【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の三十三番目の物語です。
◆前回の物語
第六章 白猫とタンゴ(4)
もう気がつけば、3月も半ばを過ぎようとしていた。
優奈と連絡を取らなくなってから(というより彼女からの返信が来なくなってから)3ヶ月経ったのかと思うと、早いような気もするしまだそれほど経っていないような気もする。
今だに優里の行く末を案じている。彼女の尻尾を掴んだと思った瞬間、するりとぎゅっと握った握り拳からすり抜けてしまった。
「……太郎、ねえ、凛太郎ってば!」
奈津美に話しかけられて、日常の世界に再び戻ってくる。
「んもう、なんか年末あたりから時々ぼーっとすることが多くなったよね。あなた元々マイペースなところがあるけど、ますます拍車がかかったみたいよね。もしかして──好きな人でもできた?」
思わず右手に持っていたペットボトルを口に持って行った時、びっくりしてゴホゴホとむせてしまった。
「な……何言ってんだよ、お前は!」
ギロリと奈津美の顔を見た。負けじと彼女も凛太郎を疑惑の籠ったような目で見返してくる。おそらくクリスマスの時の出来事が、今も尚しこりとなって残っているのだろう。
「なーんか、怪しーわ」
「ないない、それは絶対ない。てか、もしそうだったらもうとっくに奈津美にバレてるって。俺ただでさえわかりやすいんだからさ」
「ふーんまぁいいけどね」奈津美は握っている左手にぎゅっと力を込めた。……痛い。信用を取り戻すのには時間がかかる。
凛太郎と奈津美は日曜日の昼間、渋谷の街へと来ていた。彼女が渋谷で買いたいコスメ商品があると言ったからだ。
もともと観ようとしていた映画までまだ時間があり、それじゃ少しだけ寄って行こうかと急遽山手線に乗っている途中で降り立った。
相変わらず渋谷の街は、季節に関係なくたくさんの人の熱で蒸していた。
ここだけまるで季節に取り残されているみたいである。緑の電車と忠犬ハチ公の周りには、大勢の若者がまだ来ぬ友人や恋人をまだかまだかと待っていた。みんなもう気持ちは宙の彼方に追いやられているように、手元にあるスマートフォンを熱心に見つめている。
目的のコスメが売っているショップはセンター街の中にあるというので、二人はスクランブル交差点の支点に立った。
しばらく信号が変わるのを待っていると、わらわらとどこからともなく人が集まり始める。数分おきに信号が変わっているというのに目にも止まらぬ速さで人が滞留していく。
何がこんなにもこの街は人々の心を惹きつけるのだろうか。凛太郎は人々の感情が理解できなかった。どこからか思わず鼻を摘みたくなるような匂いが漂ってくる。
かつて優里が言っていた言葉が頭に蘇った。
──ねえ、リンくん。私ね、いつもこれ作ると渋谷のあの雑踏を思い出して少し切ない気持ちになるの。
今なら、少しは彼女の気持ちがわかる気がする。
確かに、この街にいる人たちは何かしら空疎な気持ちを抱えている。満たされない何か。なんでも揃うこの街に足を運ぶことによって、虚像の何かでそのポッカリ空いた胸の奥の隙間を埋めようとしているのかもしれない。
スクランブル交差点の信号が、赤から青に変わった。
凛太郎と奈津美が一歩踏み出したと同時に横にいた人たちも一斉に足を踏み出した。彼らは何かに取り憑かれたかのように急いで交差点を足速で通り過ぎていく。
その時、ふと凛太郎が前を見て思わず目に止まったものがあった。
──赤い、ワンピース。
それは周囲から着実に浮いていた。原宿であればそこまで浮かなかったかもしれないが、その時不思議と渋谷にはそこまで派手な服を着た人がいなかった。その深紅のワンピースは間違いなく、かつて夜の遊園地で優里が着ていた服だった。
慌てて凛太郎は彼女の後を追いかけようとする。ところが、周囲にいるたくさんの見ず知らずの人たちが凛太郎の行く末を阻む。
なんとか前に進もうと躍起になったが、周りから白い目で見られるだけでそれは逆効果だった。そうこうしているうちに深紅のワンピースを着た彼女は決して振り返ることなくどんどんどんどん先へと進んでいく。
ようやくスクランブル交差点を渡り終えたものの、まだ彼女は手の届かない位置にいる。
だいぶ人をかき分けるのに体力を消耗し、普段運動し慣れていない凛太郎の息はあがっていた。再び彼女の後を追いかけようとした瞬間、彼女は自然にくるりとこちらを振り向いた。
──彼女は、間違いなく彼女だった。でも、彼女ではなかった。
振り向いた女性は予想通り、優里の顔をしていた。だが、彼女の顔には決定的な何かが欠けていた。言葉に表現することが難しいが、どこか魂が抜け落ちたような表情をしている。
顔の下半分を覆うような格好で、ピンク色のマスクをつけていた。思わず凛太郎はその場に立ちすくむ。かつての思い人がいるのに、それ以上彼女の後を追いかけてはいけないような気がした。
芹沢さんと会った時に、彼女が言っていた言葉を思い出す。まるで抜け殻みたいな感じだったと。
「凛太郎!いきなりどうしたのよ、ひとりで勝手に突き進んで行ったりして」
後ろから奈津美が追いかけてきた。その言葉を聞いて、再び現実に引き戻される。
「あ、ああ、ごめん──」奈津美を置いて先に行ってしまったことを、凛太郎は素直に詫びた。
気がつけば深紅のワンピースを着た女性は、凛太郎の前から消えていた。
<第33夜へ続く>
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