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#86 正義と愛について

ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。

『わたしが正義について語るなら』やなせたかし p.15

 ある時から、私の中でぐるぐると渦巻くようになった問題がある。それは、正義とは一体なんなのか──ということだった。

 真面目か、と言われそうだが実際非常にセンシティブな問題だ。ひとつ間違えると、それは鋭く人を傷つける刃となって返ってくる。辞書で調べると、「正しい道理。人間行為の正しさ。」という定義が書かれていた。ただしその言葉尻を捉えた時にそれは果たして正確に「正義」という言葉を意味づけしたものなのかと思わず頭を抱えて私はうずくまった。

 正しい道理、という言葉自体はわかる。人間行為の正しさに関しても。でもそれは誰にとっての? という言葉がポンと抜け落ちていて、なんとはなしにぞわぞわしてしまう。そんな時にふと手に取ることになったのが、やなせたかしさんの『わたしが正義について語るなら』という本だった。どうやら元々は子ども向けに書かれたものらしいが、その実大人でも考えさせられる内容だった。

 やなせたかしさんは、ここであえて書くまでもないくらい有名人だが、改めてどんな人かを一応記しておく。彼は、長らく子供達に愛されているアニメ『アンパンマン』の生みの親である。アンパンマンとはそもそもパンの製造過程であんパンに「いのちの星」が入ることで誕生した正義のヒーローである(Wikipediaより)。私が幼い頃も、大変お世話になった。

 今でも思い出すのが、アンパンマンとバイキンマンのやりとりで大体がバイキンマンはアンパンマンにアンパーンチ! と攻撃を受けて最後やられるというのがお決まりの流れである。そう、アンパンマンは、周りの人に危害を加えようとするバイキンマンを許さない。でも、バイキンマンも完全なる悪かというとそんなわけでもなくて、どこかおっちょこちょいなところは愛嬌が持てる。

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 さて、それで改めて正義についての話に戻るのだが、これは一体なんなのか。これはおそらく主体と受け手側で随分見方が変わってくるのではないだろうか。特にわかりやすい例が、戦争でかつての第二次世界大戦において日本側がアメリカに対して攻撃を仕掛けたことは、自分たちの中にある正義を貫き通した結果でもあるわけだし、一方でアメリカからすると日本が行った行為は、悪の所業となってしまう。

 では昨今ニュースで取り沙汰されているウクライナとロシア間の対立はどうかというと、これも同じ構図で私たち日本人側から見た時に攻撃を仕掛けたロシア側に対して、ウクライナがそれに対抗して自分たちの国を守るために反撃するという図というのは一つの正義が具現化した形なのかもしれないが、ロシア側からするとウクライナは元々自分たちと同じ「民族」であって、それだけにNATOに入ってアメリカに寄り添おうとするウクライナに対して裏切られたと感じて正義を振り翳して徹底的に弾圧しようとする。

 そう、正義とはそれぞれからの視点に立った時の定義であるものなのだ。

 一筋縄ではいかない話だと思う。第三者から見たときにどうしても立場が弱い側に対して、その正義の置き所を見つけようとしてしまうのだが、事態はそれほど簡単ではない。アンパンマンにとっては周りの人たちを守るための正義であっても、バイキンマンはいじめることでしか保てない自身の正義が介在している。それがどんなに理不尽なことであったとしても。正義はあやふやな存在で、立場が異なれば悪魔となる。

 アンパンマンの中で出てきた数ある中でも、私はロールパンナというキャラクターのことが忘れられない。彼女はばいきんジュースを混ぜられて生まれたが故に、正しい心と悪い心の双方を持っている。これは、もしかすると正義を扱う上での正体かもしれない。扱う人によって毒にも、薬にもなる。

 やなせさんは本の中で、

悪者は最初から最後まで完全に悪いわけではありません。世の中にはある程度の悪がいつも必要なのです。 

『わたしが正義について語るなら』やなせたかし p.33

 というふうにも語っている。そうだ、バイキンとは菌の仲間ではあるのだが、よくよく考えると菌は体に対して悪さもするのだが、私たちの体の調子を整える存在でもあるからして、一概にそれが悪いとも言えない。そして人間関係においても、時々そのグループの中で共通の敵? というのが出てくるケースもあるが、それがよりチームの結束力を固めるための存在にもなりうるのだ。

 正義とは、結局のところ個人のものさしに委ねられ、それを周知の正義とするには不特定多数のマジョリティ側の判断に任せられる。このマジョリティ側の判断というのがとても厄介で、数多くの人たちによって支えられた「正義」は時には盲目的になり、時に正常な判断をできなくさせてしまう。そして最終的には、ともすると差別が生まれることにもつながる。

 誰かが鈍く光る正義を振り翳し、俺は正しい、お前たちが間違っていると差し迫る。中心にいる人は相手の気持ちなぞ考えやしない。マスメディアはこぞって、誰か知名な人の足を掬って、あんたの行為は間違っていると指をさす。苦しい、逃れることができない。息ができない。少人数の立場に置かれたものは反論しようとしても、圧倒的多数に勝つことができない。正しさとは、なんなんだ。義憤に駆られて、時には人一人追い詰めることにもなりかねないというのに、一度執着すると、人は大切なことを忘れてしまう。

 その最たる例は上述した戦争でのそれぞれの立場から見えるものでもあるし、時に巻き起こるデモから感じることでもある。愛国心という大義名分によって巻き起こる大きなうねりの裏で、確実に犠牲になっている人がいる。正義は時に誰かに血によって成り立っているということを忘れてはいけないのだ。

正義はある日突然逆転する。
逆転しない正義は献身と愛です。 

『わたしが正義について語ること』やなせたかし p.21

 私は思わずハッとする。自分が正しいと示すこと。でもそれは、本当に周りの人を幸せにするものなのだろうか。世間のニュースを見ても、それから私が普段生きる中でも、不特定大多数の正義の言葉に翻弄されて、その本質を見失いがちだ。糾弾されるのは、あなたが悪いことをしたからなんだよ、と耳元でその人は囁く。そうなのかもしれない、そうなのかもしれないけれど、そうやって誰かを追い詰めることによって実行される正義は、誰のためなのだろうか。

 やなせさんの言葉を読んで、私たちは忘れてはいけないものの正体を知った。相手のことを思いやる。身近に浮かんだ誰の顔でも良い。その人に対して尽くしたいと思う心と、その人のことを幸せにしたいと願う愛を同居させた上で振りかざす正義、これこそが本当の正しさなのではないだろうか。

 ふ、っと幻聴が聞こえた気がした。アンパーンチ、という大人からしてみるとなんとも幼稚な響き。でも、私はいつしか見てしまった。アンパンマンは己が放ったパンチによって、嘆き涙を流している姿を。本来、正義とは自分自身を傷つける恐れのあるもので、それだけに振りかざすには慎重に慎重を期す必要があることを、私は身をもって知ったのだ。


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