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#96 生きづらさの中で芽吹く

男性を愛で包みこむことができるやさしさを強要されてきた女性に必要なのは、きれいごとばかりで飾られた愛でなく、苦労して相手を説得しようとしなくても問題を解決できる自由です。

『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』p.103

 少しずつ、少しずつ自分の中の水温が上昇していくのを感じる。単純な比喩だけれど、美しく流れる川そのままに、昔より心が凪いで、そして沸々と何かがこぼれ出す気配を感じている。

 ここ最近、何かに取り憑かれたようにフェミニズムに関する本について読んでいた。それはたぶんLGBTQ+の本を読んだことがきっかけかもしれなかった。私たちが暮らすこの社会は、「普通のもの」として当たり前のように成り立っている仕組みが、私たちが思っている以上に実はねじれているかもしれないということに、みんな目を瞑ってしまっている。

 そもそもフェミニズムとは、定義的には女性の権利を認め、男女平等と多様性を志向する人たちの運動のことを指す。中には、「何をそこまで」とふふんと笑う人もいるかもしれない。でも、きっとこれはその立場に立った人でないとわからないことなのだと思う。実際に自分がその身に置かれる立場の人と、事実だけを見聞きした人たちの間には高い壁が存在している。

理解させるために頑張る、ではない。
そもそも理解はもともと、してもらうことではなく、すること。

苦しみに耐えて努力すべきなのは、あなたではなく「知りたい」と思う側。

 フェミニズムが獲得しようとしているのは、基本権──。

 最初にフェミニズムについて改めて深く知りたいと考えたのは一冊の本からだった。『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』、イ・ミンギョンさんの本。始まりは、江南駅殺人事件。記憶に新しい方もいるかもしれない。2016年に韓国で起こった、通り魔事件である。犯人は女性に対して強い憎悪を抱いており、なんの関係もない女性を殺害してしまったなんとも痛ましい事件。

 事件をきっかけにして、女性たちは声を上げるようになる。今まで何かおかしいと感じていた女性たちが拳をあげ、そして男性からの見えないレッテルに対して怒りの礫を投げ始める。男女平等という言葉が使われるようになって久しいが、依然として見えない壁が両者の間には存在している。

 LGBTQ+の時にも感じたことだが、人はあらかじめ自分が持っている既得権益のようなものをなかなか手放そうとしない。口では平等社会と謳っておきながら、実際そうではない事実が、動かせない不平等が、道の狭間を貫いている。

 男性は外で働き、女性は家を守る──。長く、永らく日本の社会にも蔓延っていた家父長制度。もうそれが、当たり前である時代は終わった。一家の大黒柱である男性が、家族に対して絶対的支配権を持つ時代。家父長制度によって男性は男性としての確固たるプライドを揺るがないものとしてきたのだけど、それはきっと井の中の蛙状態だったのかもしれない。

 今でも会社の役員を見ると、厳しい男性の顔がずらりと並んでいるし、お金をより多くもらっているのは男性側。でも、それは決して男性が女性よりも能力が劣っているということを意味しているのではなくて、単純にマジョリティ側が彼らで、そして身体的な特徴だけ言うと、力を持っているのが彼らだったというだけなのだと思う。

差別が依然としてあるけれど徐々によくなっているからって、「差別はもうないと言っていい」と言うのは間違いです。

『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』p.51

*

愛について再考し、その重要性と価値を主張する代わりに、フェミニズムはただ、愛について語ることをやめてしまった。

『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』p.159

 続けて『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』という本を読んだ。これは、一方的にフェミニズムの正しさ、のようなものを押し付ける本ではなくて、誰しもが感じ取るこの社会の歪みを丁寧に解説している良書だった。フェミニストの中にも、さまざまなスタンスの人たちがおり、これがなかなか一筋縄ではいかない。

 もともと運動の発端となったアメリカにおいては、幾つものフェミニズム運動が行われてきた。その最中にあっても、異なる階級における女性たちの立場の違いというのは顕著で、高学歴である女性たちが低賃金の単純労働によって搾取されている現実に異を唱えること、もともと裕福な家庭に生まれ育った特権階級の人たちが振りかざす家父長制度への反発、貧困層の人たちが訴える平等な社会の実現、まさにそれぞれがそれぞれの立場で、己の憂いを述べるに至る。

 ついこの間見ていた「こっち向いてよ向井くん」というドラマ、わたしは毎週楽しみにしていたテレビ番組の一つだったのだが、本作品の中でも女性はこう、男性はこうという固定概念ではなくてみんな違う存在なんだよという言葉が割としっかり胸の奥に突き刺さった。そうだ、みんな同じ枠組みの中に似たようなもの同士として入れられるけど、その実それぞれが異なる思いや性格を備えていて、それは決して同じものとして括られるべきものではないのだ。

 それぞれが異なる個性や考え、価値観を持っている。それでも人はある一定の枠組みに収められることによって、果たして自分が何者か、というのを自分の中で形作ろうとしている。女性が女性らしく生きるということはなんなのか、間違いなく今の社会はどこかに生きづらさが存在していて、それはもう一つの男性という性との関係性の中で対等に向き合うために、不足している考え方が一定数存在している。

 互いが平等であるためには、まずは相手が抱えている不利益をきっちり認識するところから始めるべきだ。それにはきっと、愛が必要なのだろう。相手を慈しみ、思いやり、きちんと理解するところから始める。でも、中には勝手に自分の中に作られた固定概念に縛られてしまう人もいる。「なんでそんなに過剰反応するのさ」、「今って、いろいろと息苦しい世の中だよね」そうした“いかにも”という発言の裏には、相手を理解したいという気遣いが見えないし、それは単なる現実逃避にしかならない。

 圧倒的な力の差がある中で、怯えなければならない夜を過ごすこと。力の差があることによって、それが相手の心に十分傷を与える力があることを、しっかりと理解しなければならない。

 真のフェミニズムは必ず、束縛から自由へ、愛のない生活から愛にみちた生活へ、わたしたちを導いてくれる。

(中略)わたしたちが、真実の愛は相手を尊重し受け入れることから生まれると認め、また、愛は自覚や思いやり、責任や参加や知識と結びついたものであると認めるとき、愛はまた正義なしにありえないということもわかるだろう。このことを自覚するとき、次にわかるのは、愛にはわたしたちを変える力があること、愛は支配に抵抗する力をくれるということだ。だから、フェミニズムを選ぶことは、愛を選ぶことなのである。

『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』p.161

*

 最後に、『「ふつうの家族」にさようなら』という本について、紹介したい。これは決して全ての内容がフェミニズムについて触れられているわけではないのだが、いわゆる世間一般からの声なき圧力(例えば、ある程度の年齢に達したら結婚して、子どもを産むべき)に対して、別にそうした空気にがんじがらめにされる必要はないんだよ、ということを優しく語りかけられている気持ちになる。

 家父長制度に、もう私たちはこだわる必要はない。それぞれが、自分の行きたい道をしっかりと定める。女性であることを、誇りに思える時代が到来している。そう、私たちは男性も女性も関係なく、自由で、対等であり、誇りを持つべきなのだ。そして時には、自分の心の赴くままにこれだと感じた人やものに対して、精一杯愛を傾けることで、この世の中で正しく息をすることができるのだ。


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