見出し画像

#67 灯台から愛を叫ぶ

 目の前の光景を見て、思わず立ちすくむ。「/(^o^)\ナンテコッタイ」と変な絵文字がポッと頭の中で浮かんだ。バグっている。私の二つの目が捉えているのは、横殴りに吹き荒ぶ、みぞれにも似た雪の結晶の粒。

 三日前に仕事の関係で富山に来ており、その足で金沢へと移動した。前日はしとしとと雨が降っていたのに、朝起きた瞬間吹雪いていた。まさかこんな光景に二度もお目にかかれるとは。わたしが住んでいる場所では、雪なんて降る気配が微塵もなかったのに、先日の北海道旅行と言い、やたらと今年は雪に縁がある。ラストスパートをかけるように。

*


 富山をはじめてきちんと歩いたかもしれない。そして昔に比べて肥えた私の舌は、白子、牡蠣、ます寿司を食べて富山に暮らす人たちがいかに満ち足りた生活を送っているかを想像する。昔留学先で仲良くなった友人が、いつか富山でご飯食べたらびっくりするよーと言っていたことを思い出した。

 富山駅中心地からゴトゴトと路面電車に乗って、ゆったり一時間ほどかけて東岩瀬という場所へ赴く。そういえば、札幌に続いて路面電車にも近頃妙に縁がある。東京にも東京さくらトラム(旧都電荒川線)という名の路面電車があるけれど、なぜこんなにも街中を走る電車に乗るとワクワクするのだろう。

 目の前にいた男の子が、座席に乗っかるようにしておばあちゃんに見てみてー!と言っていたが、内心私はちゃんと座りなよと思いながらも「そうしたくなる気持ちわかる!」と思っていた。

 東岩瀬は海にほど近く、「岩瀬浜」という名の最終終着駅から歩いて5分ほどの場所に浜辺が突如現れた。私のほかには、肩を並べて楽しそうにしゃべっている女の子二人組がいて、ああ青春だなぁと思っていたら突如として何羽ものとんびが彼女たちめがけて飛んできて、あわや大惨事になるところだった。

 彼女たちは「ぎゃーたすけてぇ!」と言いながら浜を全力疾走していた。ああ青春だなぁと思った反面、私は私でどうにか助けなきゃと思いながらあたふたして、救う手立てが思い浮かばずただ茫然としていた。結局彼女たちは、ヒヤッとしたぁと言いながらその場を後にしていった。(果たして正解はどうするべきだったのか…)

 一通り人気のなくなった海でぶらぶらして、それから東岩瀬にある北前船で財を成した森家を見に行った。一言で言うと格式高そうなお屋敷である。国の重要文化財にも指定されている。ちなみに北前船とは、江戸時代後半から明治にかけて繁栄した商売の形態だそう。大阪から富山、そして北海道にかけて荷物の積み下ろしをしていたそうな。北海道からはにしん。…あ、ここでもつながった。私はもしかすると船に乗って旅しているのだろうか。

*

 結局私はその日のうちに、現代の船と言っても過言ではない高速な乗り物に乗って(いやそれは違うか)、30分もかからないうちに金沢駅へたどり着いた。思えば、ちょうど2年ほど前に友人と会うために来た時以来だった。

 寄木細工、と言うべきなのか何なのかわからない特徴的なモニュメント。鼓門といって能楽で使われる鼓がモチーフの模様。それから金沢駅に接続する幾何学模様のガラス張りのドームは、『駅を降りた人に傘を差し出すおもてなしの心』をコンセプトに誕生したらしい。なるほど、そのおもてなしの心しかと受け取った!(※コノエミズさん、ありがとうございます!)

 ほっこりしたのもつかの間、猛吹雪に襲われ、私は北陸の痛烈な雪アタックに恐れをなした。折り畳み傘を広げようものなら、ものすごい突風によって体ごと持っていかれそうになる。気が付けば、折り畳み傘は敵の脅威にさらされ戦意喪失していた。そして彼は、三本、その身を砕くことになる。

 てんやわんやしながらも、近江町市場と呼ばれる新鮮な海鮮が集まる市場へと向かう。雪にも負けず雨にも負けず、そこにはたくさんの人が歩いていた。市場を歩くたびに、寄ってらっしゃい見てらっしゃいと声を掛けられ、ついに10分ほどで彼らの誘惑に負けた私は、気が付けばカニを買っていた。そばを通り過ぎた男の子がはしゃいだ様子で「カンニンシテえ!」と言っているのを聞いて、思わず吹き出してしまった。

 ほっと一息ついたのもつかの間、私は意を決して市場の外へ出て、その足でひがし茶屋街へと向かう。今となっては、何故バスを使わなかったのか自分で自分がわからない。兎にも角にも私はどこか宮沢賢治の気持ちになりたかったのかもしれない。

 寒さで震える体。どうしたものか。お店を冷やかすというよりかは、むしろ自分の体を温めるため、さりげなく土産物屋に入って、それとなくお土産を買う客であることを装う。…つもりだったのに、ついつい店員さんの口車に乗って緩んだ財布のひもを空けてしまった。私の意気地なし!

*

 ひがし茶屋街では実は行きたい目的があって、それが「加賀棒茶 丸八製茶場 一笑」というお店だった。ほうじ茶専門のお店。営業時間12時からで、事前に情報をせっせせっせと集めたところ、早めにいかないとディズニーランドばりに待つことになるというので、開店と同時に並ぶ。悪天候が功を奏して、一巡目に入ることができた。

 中はシンプルで、落ち着いた装い。最初に4種類ほどある茶葉の説明を丁寧にしてもらい、それから自分好みのお茶を選ぶ。贅沢なひととき。思わず息が漏れる。香りがユラユラと揺れる。10分ほどして運ばれてきたほうじ茶は、今まで嗅いだことがないくらい芳しい香りがした。

 その雰囲気の中に揺られながら、もしかするとこれが大人になることなのかもしれないと思った。最近、自分の未熟さを改めてひしひしと感じる出来事があって、煮え湯を飲まされたような感じになったけれど、煮え湯は煮え湯でも五感をフル回転させて飲む煮え湯は悪くないかもしれないなぁと独り言ちながら。

 なんだろうね、ただ何も聞いていないので飲むお茶と、きちんと由来だとか聞いて飲むお茶とではこんなにも感じ方が変わるのだと思った。これほど背景が大切だとは。語られる物語によって、紡がれていくものがある。ほうじ茶を噛みしめるように飲みながら、西加奈子さんの『夜が明ける』を読んでいた。主人公たちが、ゆったりと舟をこぎ始める。

*

 相変わらず、お店の外に出ると猛吹雪であることは変わりなくて、なんなら小石のような、ざらめのようなあられさえ降っていた。特段痛くはないのだが、妙にだれかにお腹をつんつんされているようなそんな気持ちになる。

 寒い手をこすり合わせて、そういえば年末に友人たちと忘年会するんだったことを思い出して、日本酒を買って。最後は九谷焼を買った。こうやってお財布の中身はフワフワと飛んでいくのである。でも最近思うのは、お金を使うでも誰かのことを考えて使うのことは決して懐を傷めないということだ。

 私が今こうして文章を書いている時、きっと雪はさすがに止んでいるだろう。フーテンの寅さんがたどった道を思い出した。日常には非日常の世界が必要だ。それがたとえ、あたり一面寒さの厳しい銀世界であっても。最後に金箔のお茶を飲んだ。こうして日常が光り輝いている。これはこれで、悪くない。富山では昔灯台として使われていた展望台に登った。今でも現役で使われている船がいくつも見える。

 きっと今もどこかで誰かが、舟を漕ぎ、ゆっくりと前に進んでいる。言葉にならない愛を叫びながら。


故にわたしは真摯に愛を語る

皆さんが考える、愛についてのエピソードを募集中。「#愛について語ること 」というタグならびに下記記事のURLを載せていただくと、そのうち私の記事の中で紹介させていただきます。ご応募お待ちしています!

末筆ながら、応援いただけますと嬉しいです。いただいたご支援に関しましては、新たな本や映画を見たり次の旅の準備に備えるために使いたいと思います。