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 金魚鉢の中に、ただ一匹だけゆらゆらと黒い金魚が泳いでいる。

 時折ブブブブと水中ポンプの音がする。この狭い世界で生きていく上で欠かせない存在。その音を聞くと、ほんの少し心がザワザワする。

 彼女は何も言わずに水槽の中を漂っていた。性別は実のところわからない。でもなんとなく初めてこの金魚を目にしたときに、「あ、女の子だな」と直感で思ったのだ。それから私は「水際ちゃん」と名前をつけた。なぜかと言われるとそれもうまく説明できない。ただ安易に渚という名前にしたくなかった。ただそれだけだ。

 寂しそうな様子で水際ちゃんは黒い尾鰭をひらひらとさせていた。

*

 昔から私は人と群れて行動するのが苦手な女の子だった。

 一人で好きな本や漫画を読むのが好きで、本当は学校に行っている間も休み時間もお昼休みも、なんなら登下校のときもできることなら物語の世界に没頭していたかった。

 それでもこの世の中、他人と違うことをするとうまく息ができなくなるようにできているらしい。気がつけば私は狭い世界の仕組みをぼんやりと理解するようになり、5人くらいの女子グループの中に取り込まれていた。お昼ご飯もトイレに行く時もみんな一緒。まるで金魚のフンのよう。

 どこからか水中ポンプが振動する音がした。

 きっとみんな、一人になるのが怖かったのだ。

*

 今日の服装は、トップスは黒いニットのカーディガン、下はグレーのワイドパンツ。

 基本私はどちらかというと、色彩が暗いトーンの服を選びがちだ。それはできるだけ自分自身が目立たないように生きるための防御服でもある。友人からはなぜか遥の服装って大人っぽいよね、と評価される。

「はい、冬の季節にあるとガッカリするものなんですかー?」

 ニコニコしながら美奈子が顔を近づけてきた。彼女からは爽やかな香水の匂いがした。いつもきっちりと化粧をして、いかにもお洒落に気を遣っているのがわかる。私は時々親友に対して気後れを感じてしまう。

「ふぇ、いきなり何?」

 今日は運悪く、一限目から授業があった。朝早い時間帯は、どうにも頭が鈍くて思考が追いつかない。美奈子が口にした言葉も、どこか現実味を帯びておらずフワフワと宙に舞う。

 「これこれ」と言って、美奈子はコトリと黄土色と白を基調とした缶を置いた。ラベルには、ゴシック体でコーヒー微糖と書かれている。

「え、コーヒーの缶?」

「そそ、これがまた最悪なの。ちょっと触ってみてよ」

 恐る恐る触ってみる。熱いのかと思いきや、何とも微妙な肌温度である。

「ね、温いでしょう?」

「外が寒いから、冷えちゃったってこと?」

「違う違う。ついさっき学校の自販機で買ったの。出てきた瞬間からすでに冷めてるのよ、こいつ。もう嫌になっちゃう。プルタブ開けて中の液体口に流し込んだら、甘すぎてきっと吐いちゃう」

 心底嫌なものを見た、という様子で美奈子はその場を立ち去っていった。買った時から中途半端に温くなったコーヒーの缶を置いて。彼女の消えた後にはふわりとした匂いが漂っている。

*

 その日の授業はゆるゆると過ぎていった。結局私は美奈子がくれたコーヒーを、やっぱり甘いと思いながらちょびちょび飲んで、学校を出る頃には無事全て飲み終わっていた。

 冬の寒さが身に沁みる。いつもであればバイトへ行く時間だが、どこか気乗りしなくてバイト先の店長に「体調が悪くて」と言って休ませてもらった。電話越しに、店長の不満げな様子が伝わってきた。

 気分が塞ぎ込んでいるのは単純明快。専攻が一緒の女の子が、トイレで私のことを話しているのをたまたま聞いてしまったからだ。

「あの子、いいところのお嬢様そう。いつもゆったりした喋り方してさ。服装とかも、どこか男子ウケ狙ってる感じ。ちょっと苦手なタイプだなぁ」

 決してそんなことないのに。なるべくほかの人から疎まれないように無難と思われるキャラクターを演じていただけだ。本当の私なんて、この狭い世界にはどこにもいない。

 正直こんな陰口を言われるのは高校生くらいまでかと思っていた。きっとみんな歳を重ねるにつれてそれなりに分別もできて、そんな誰かの悪口を言うなんて子供じみた遊び、やらないと思ったのにな。

*

 そのまま私が向かった先は、大学の最寄り駅から数駅の場所にある海だった。美奈子は、むしゃくしゃした時には好きな服を気が済むまで買うのが一番!と言っていた。他にも同じようなことを言う子が多い。でも私の場合、自分の気持ちを発散できるのは海にいる時間だった。

 私は夏よりも冬の海の方が断然好き。夏はどこからともなくたくさんの知らない人がわらわらと現れ、砂の上の隙間を埋めていく。楽しそうな人々の声、美味しそうなとうもろこしの匂い、照り返す夏の陽射し。想像するだけでゾッとする。

 その日も波が来ないギリギリの場所まで近づいて、砂浜の上に座る。ただひたすら何もせず、波の音をただぼーっと聞いていた。時々吹いてくる風が冷たい。気がつけばとっくに日は暮れて、あたりには煌々と遠くに灯が灯っている。

 するとどこからか、波の音に混じってこちらに向かってくる足音が聞こえる。

 ──もちろん、別に驚くことでもなんでもない。冬でも人は来る。でも今回ちょっとびっくりしたのはその人が熊のように大きな体で、言葉に表せられないくらいの存在感を放っていたから。おまけに彼は黒いスーツを着ていた。遠くの街の明かりでぼんやりとその姿が映し出される。

 海にスーツで来るなんてちょっと頭がおかしい人かもしれない。驚きすぎて思わず二度見してしまった。(以下、その男のことを「熊男」と呼ぶ)

 熊男はそのままズンズンこちらへやってきて、私が座っている場所から2.5メートルくらいの位置に腰を下ろした。

 一体なんなんだ、この熊男は。私のテリトリーに入ってきて。内心チッと舌打ちをしかけたが、海はみんなのものなので文句は言えまい。体育座りをしてぼーっと海を眺める人間が二人並ぶ格好になった。おそらく側から見たらとても奇妙な光景に見えたことに違いない。

 どうしよう、困ったな、もうこのまま帰ろうかなと思っていたら波がザパーンと波打って、これまでよりも大きく砂浜を濡らした。私は慌てて立ち上がり、すんでのところでなんとかかわすことができた。が、熊男はそのままどっぷりと波にお尻を水に浸らせる形になっていた。

 熊男は微動だにしない。私は先ほどよりももっとびっくりしてしまった。

「あ、あの……大丈夫ですか?」

「ん?……ああ。人がいたんですね。これは失礼しました」

 ゆったりとした仕草で熊男は私の方へ振り返る。月明かりに照らされた顔を見て私は三度びっくりしてしまった。なんと熊男は泣いていたのだ。

「あ、あの……大丈夫ですか?」思わず同じ台詞を再度繰り返してしまった。

「ああ、気にしないでください。大したことじゃありませんから」

 辺りは熊男と私が喋る音以外聞こえなくて、残るは静かに引いてはよせるザザザザという波の音だけだった。

*

*

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「──とまあ、これが熊男との馴れ初めですよ」

「え、何よその唐突な話の終わらせ方は!」

 私の目の前には美奈子がいて、浴衣姿で線香花火を持っている。パチパチと爆ぜる小さな炎。夏の夜の海でやる花火もなかなか悪くないと最近は思っている。場所を選べば、想像していたよりも人は多くない。

「これはどういうことですか、小野寺さん!」

「あ、いやーそのー。まあそういうことですな」

 私の隣で大きな体を揺らしながら熊男が照れくさそうに右手で自分の後頭部を触っている。今から3年前に出会った夫との馴れ初め話を美奈子に話したのだが、彼女はなかなかその話が腑に落ちていないようだった。

「というか!そもそも何でくま……小野寺さんは泣いてたんですか?」

「いや、それがねえ、当時片思いをしていた渚という女の子から結婚するという話を聞きましてね。それでどうにも胸が苦しくなって海に行ったわけですよ。そこでたまたま遥に出会いまして……」

*

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 初めて熊男と行った納涼祭。屋台でたくさん泳いでいる金魚の中から、私は黒い金魚をすくった。最初赤い金魚の方が可愛いかもしれないと思ったけれど、黒い金魚を見て不思議と昔の自分のことを思い出した。赤に染まることが叶わなかった黒い金魚。

 熊男と一緒に暮らし始めて、彼が一匹にしておくのは可哀想だよと言うので次の年に行ったお祭りで再び私は金魚すくいをした。その時は残念ながらすぐにポイをダメにして、金魚を拾い上げることができなかった。

 「よし、今度は俺の番」と言って熊男がポイを持つ。その姿がなんとも鮭を掴もうとする熊のように見えて私はおかしくなった。突然笑いの止まらなくなった私を見て、さぞかし熊男はびっくりしたことだろう。

 平静を取り戻した後、彼は慣れた手つきで黒い金魚をいとも簡単にさらった。それはもう、芸術とも言えるような見事な手つきだった。

 そんなふうにして、「水際ちゃん」の隣には「熊男」が一緒に仲良く泳いでいる。私はその二匹の金魚を見て、どこかホッとしている自分がいることに気がついた。そのときにはもう金魚鉢の中にある小さな水中ポンプの音は気にならなくなっていた。

 最近は服装にも気を遣うようになり、少しずつだけど私の生活の周りが彩られていく。

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 最近夫と暮らすようになって気がついた。

 私はきっと、もう一匹の金魚をすくうことで昔の私自身を救いたかったのだ。


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