見出し画像

ビロードの掟 第0夜

【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の最初の物語です。

序章 面影

 彼女は、僕がこの世で二番目に愛した女性の、唯一無二の親友だった。

 どこからか波の音が聞こえてくるような気がする。真っ先に思い浮かぶのは、頭上にぽっかりと浮かぶ満月と辺りを覆う深い闇。時々遠くから聞こえてくる鳥の鳴き声。──それから、月の光を一心に背負う人の姿。振り向きざま、その人はどこか悲しげな様子で僕のことをじっと見つめるのだ。何も言葉を発しないまま。

 彼女に対して何か言葉を伝えなければいけないと思うのに、思いだけが空回りしてうまく言葉にすることができない。何度も言うことを躊躇ちゅうちょしては、結局何か口にすることを諦めた。

 そのとき、彼女が僕に向かって何か言葉を発したような気がした。ザァザァという波の音が耳障りでうまく聞き取れない。「なんて言ったの?」と聞き返そうとした瞬間、彼女はふっと笑みを漏らした。どこか憂いを帯びた表情で、何か全てを悟ったかのような雰囲気を醸し出していた。

          *

 夜は、昔僕にとって畏怖いふの対象だった。言葉に表せないくらいの恐怖が胸の中に押し止まっていた。

 先が全く見えない暗闇の中にいつかさらわれてしまうのではないか、と思っていたのかもしれない。当時小学校に入ったばかりの頃クラスでは怪談話が流行っていて、口裂け女だとか天狗だとか得体の知れない異形無形いぎょうむぎょうの存在を僕らは本気で信じていた。

 僕がかつて住んでいた家は昔ながらの平家造りで、用を足すには外を歩いていかなければならない。しんと静まりかえった中で、自分の足音だけが響き渡る。

 今思うと、大した距離でもなかったのに、トイレまでたどり着くのにかなりの勇気を要した。感覚的には大怪獣ゴジラの足元で潰されないように、そろそろ歩いていくような感じだ。一瞬でも気を抜くと何者かに連れ去られてしまうのではないか。

 あまりにも夜外に出るのが嫌すぎて、寝小便をしてしまったことを思い出す。その度母親にはこっぴどく怒られ、父親には蔑むような目つきで見られた。さぞかし不甲斐ない息子に思えたのだろう。体が萎縮いしゅくしてその時は絶対に我慢するんだと思うのだけど、結局数日経つと恐怖が優って同じことの繰り返しとなるのだった。

 怒られた後、祖母が僕のことを慰めてくれた。僕はますます情けない気持ちになるという悪循環。その祖母も、数年前に風邪をこじらせてそのまま眠るように息を引き取った。今では僕の味方はこの世界に誰もいない。

          *

 エアコンから微かにカタカタという音が聞こえてくる。もうそろそろ夜が明けるというのに、いまだに脳が覚醒していて眠りにつくことができない。これはきっと、これから起ころうとしている出来事に、胸が震えて苦しいからに違いなかった。

 明日、僕は世界で一番大切な人と、別れを告げることになる。


<第1夜へ続く>

↓現在、毎日小説を投稿してます。


末筆ながら、応援いただけますと嬉しいです。いただいたご支援に関しましては、新たな本や映画を見たり次の旅の準備に備えるために使いたいと思います。