退屈な時間を持て余す

 昨日ミヒャエル・エンデの『モモ』について、数十年の時を経て改めて考察した記事を書いたけれど、たまたま最近読み終わった本が時間の過ごし方に関して書かれていて、今日の記事についてもその延長線上のような形となっている。

 先日、友人から『暇と退屈の倫理学』という本を借りる機会があり、早速読んでみた。私自身、効率的に時間を使うことに囚われすぎている自分に半ば嫌気がさしていて、ちょうど良いタイミングで読むことができたように思う。

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 流しっぱなしの誇大広告にいつの間にか踊らされ、さして欲しくもないものを買ってしまったという経験はないだろうか。

 私はもう両の手で数え切れないくらい、その経験をしている。コロナ禍のなかで、Amazonの取引額がこれまでに類を見ないくらい大幅にアップして、宅配する人たちの負担が一気に上がったという記事を何かで見たけれど、人は時間を持て余すとついつい消費行動に走りがちになってしまうんだな、と思ったことをぼんやり思い出す。

■ 消費されていく私たちの心

 消費者の欲望は、生産者側の意識操作によって作られたもの。自分たちの意思で購入したものだと思っていても、その行動の裏には何もやることなくて退屈だ、何か刺激を得たいという論理が裏で働いているのではなかろうか。

 高度経済成長期、日本人は我先にと必死で毎日馬車馬のように働いた。そして少しでも楽な生活をできるようにと、一生懸命仕事に専念した。それで自分の心がバラバラになろうとも、一切関係がなかったのだ。

 それから数十年たった今、人々の生活は大きく、とても大きく変化した。ある程度余裕が生まれるようになったのである。そして辿り着いた結果は大量生産、大量消費の時代。そして多くの人々が昔では考えられないような贅沢をする余裕が今ではでき始めている。

 かつてはより豊かになるという大義名分によって、人々は少しでも多く働こうと躍起になっていたのだろうが、それが今の時勢見直され始めている。時間を持て余した人たちは、なんでもいいから熱中できるものを見つけてその隙間を埋めるために必死だ。

 そして必死になればなるほど、どこか虚しさを覚えるようになる。果たしてなぜ自分はこんなことやっているのだろう、という気持ちにさえなってくるのだ。

■ 浪費と消費

 贅沢自体は決して間違った結果ではない。問題となるのは、人々がなんの目的もなく、ただただ消費してしまうことだ。消費自体には、限界がない。そしてそこには全く意味なんてものが存在しない。

 他の人が持っているものが欲しくなる。これをホッブズという哲学者が、<希望の平等>という心理学的要素に言い換えている。誰もが同じように同じものを希望し、それが得られないことにより不安を引き起こす。

 そしてその積み重ねで、いつか消費者は自分が「個性的」な存在になれるのではないかという妄想を抱くようになる。でも、そんな風に消費から生まれた「個性」というのが一体何なのか誰にもわからない。私たちは見えないマスメディアによってくるくると踊らされているだけ。くるくるくるくる、動けなくなるまで踊り続ける。

 消費社会に取り残された人は、一定の疎外感を感じるようになる。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。決して満たされることのない人の心。限界がないから、次第に限られた資源は底をつく。

 一方でその対として語られているのが、浪費。必ずどこかで限界がくるもの。筆者は、浪費できる社会こそが「豊かな社会」でなないかと言及する。

■ 退屈の正体とは何か?

 ものが満たされ、文明の発達により快適に生活できるようになった今の社会において、私たちはきっと以前よりもずっと退屈な時間を感じるようになってしまったように思う。そして隙間時間がないくらい、時間を詰め込んでいく。

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 ここで退屈とは何を指すのか?哲学者であるハイデッガーという人が、割と具体的にその定義を3つの形式に沿って示している。

第1形式.何かによって退屈させられること
 例えば次の予定まではるかに時間があって、時間を持て余してしまったことはないだろうか。それがまず退屈の第一歩。時間がぐずついている状態で、何かをやろうという気力が湧いてこない状況。何をやっても虚しさが残る状態。

第2形式.何かに際して退屈すること
 2つ目の形式では、特定の退屈なものは存在しない。ところが、自分自身が空虚になってしまう。

 例えば、友人に誘われて行った飲み会。その場は非常に盛り上がって、自分も楽しい思いをしたはずなのに、終わってみると何だかどうにも退屈だったとぼんやり思ってしまう。

 2つ目の形式はどちらかというと、筆者自身は非常に人間らしい段階だと述べている。気晴らしと区別のできない退屈さが生じている状況。おそらく筆者自身は肯定的に見ている。一方で、第1形式はかなり危うい。突き詰めた結果、時間を失いたくないという強迫観念のもとで、仕事の奴隷になってしまう。

第3形式.なんとなく退屈だ
 3つ目の形式を見た時、なんてシンプルなのか!と思わずニヤリとしてしまった。この時点で、もはや気晴らしをするという状態ではなく、無力の心理状況に追い込まれる。

 そうすると自分が存在する意味はなんぞや、という考えにはまり、第1形式へと移行、それから退屈な時間を埋めるべく、無意味にあくせく働くという現象が見事に出来上がってしまうのだ。

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■ 動物と人間の違い

自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては、何かが変わるのである。(p.339)

 ハイデッガーは、動物と人間を隔てるものは何かというと、人間には動物と違い「世界が世界として与えられている」ということだという。例えば私たちは、旅行に出かけるとその景色を美しいと思うだろうし、空気がおいしいと思う。一方で動物たちにはそんな感情はない。ただ与えられた生存する、子孫を繁栄させるという使命を粛々とこなしていくだけ。

 ところが、筆者としては動物も人間もそんなに性質としては異なるところはないと主張する。

 唯一少し異なるのは、動物が一つの行動に反復する形で固執するのに対して、もう少し人はその習慣化された行動を複数持つことにより行き来できるという点にあるという。複数の習慣化された行動を行き来できることによって、自由さが生まれそれがやがて退屈と結びつく。そして手順を間違えると、自分とはなんなのか…という深い迷走に入る。

 そうならないためには、日頃日常からいつもと異なる点を見つける。楽しいと思うものを探すようにする。そうすることにより、物事を深く理解して、贅沢な時間のなかで浪費することが可能になる。

 美味しいものを美味しいと感じるのも、小説を読んだり映画を観たりして感動したと感じるのも、常日頃から訓練しないとそんな感情は湧いてこない。それはまさしくある物事から何かを得ることができた状態である、それは消費ではなくて浪費する、という形式になる。

 全体を読んでみて、もしかしたら私自身がこれまでずっと写真を撮り続けてきたのは、1つの世界に浸ることによって、心の底から日常を楽しみたいからなのかもしれないな、とぼんやり思う今日この頃。

 それにしても、哲学の世界は考えれば考えるほどドツボにハマって抜け出せなくなる気がする。


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