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夏が消えた日のコト

【まえがき】
当初本作品は短編小説にすることを考えておりましたが、諸事情でショートショートという形になりました。(2,500字程度)

 親知らずを抜いた。前々から私の頭を悩ませていたもの。

 歯を抜くまで、いたずらに緊張していた。時々鈍い痛みに襲われて、なかなか仕事に集中できなかった。無事に奥に挟まる歪な歯を抜いた時に、私は心の底からホッとした。これで邪魔者は消えた。

 あまりにも安心しすぎて、帰りにカレーを食べた。うっかり歯医者から言われた言葉を忘れていて、悶絶した。次の日の朝、鏡を見た私は自分の変わり果てた姿に呆然とすることになる。

           *

 踏切の前では、何かに急き立てられるように音がずっとなり続けている。

 古びたカーラジオからは昔懐かしい音楽が流れている。かとおもえば昨日の夜に起きた連続殺傷事件の続報、日経株価平均の急落、清純を売りにしていた元アイドルの不倫疑惑、目まぐるしく情景は流れていく。

 車の中はもわりとした暑さが気怠く滞留していた。クーラーのスイッチを入れようとしたが、そこまでの熱気ではないと思い、結局思いとどまった。最終的に窓を開けることでいったんは落ち着く。

 踏切音が鳴り続けてかれこれ5分くらい。いつまで経っても電車はやってこない。踏切可動部のちょうど前に、2人組の女性が立っていた。いかにも喋り好きという雰囲気のおばちゃんがそわそわしている。

 何か話をしたいのかなと思っていると、案の定隣に立っている主婦らしき女性に対して、中年女性が声をかけた。声をかけられた主婦らしき女性の右腕には、大根の葉っぱが覗く買い物袋がぶら下がっていた。

「これさっきからずっと踏切落ちたままなんだよねえ。ずっと電車がこないところを見ると、こりゃ絶対途中で飛び降りかなんかあったんだよ。飛び降り」

「はあ」

 買い物袋を腕にぶら下げた主婦は、自分にかけられた言葉にも関わらず何だか空気の抜けたような返事をする。話しかけた中年女性は、主婦の気の無い返事に対してもお構いなしである。

「全くこんなときにわざわざ飛び降りることないのに。こんな暑い夏の日に。ねえ?」

「はあ」

 カンカン、カンカン、カンカン。いつまでも規則正しい音を立てる。新たなスタイルを確立させたメトロノームのようだった。踏切の電車が行き交うことを告げる矢印の方向サインは、しばらくたっても点灯したまま。

 カーステレオからは最近流行りの歌が軽やかに流れている。確か、yuriというアーティスト。いかにも今風の女の子然とした雰囲気の曲調。爽快なアップテンポ。

 それからまたしばらく経って、ようやく電車の音が遠くから聞こえてくる。電車は、踏切の前を悠々と通り過ぎていった。まるで何事もなかったかのように。カタンコトンと乾いた音が響いている。

*

 踏切が開かれた後に、車をゆったりと発進させる。今日の目的は家族との面会である。

 窓の外からは何とも言えない懐かしい匂いが漂っている。ゆく先々はいずれも田んぼが広がっていた。夏の時期になると青々としげる稲穂。小さい頃はよく祖母の後にくっついて作業を手伝わされたっけ。

 記憶にだいぶズレがある気がする。久しぶりに帰った我が故郷は、昔と比べてずいぶん寂れてしまったように感じた。よく小学校の帰りに立ち寄った駄菓子屋さんには分厚いシャッターが降りていた。

「渚、緊張してる?」

 助手席に座っていた夫が様子を伺う様子で私に話しかけてきた。後部座席にはすやすやと眠る赤ん坊。私がこの世界で最も大切に守らなければならない存在。腫れが引いた頬をなんとはなしに触った。「親知らず」なんて名前は誰がつけたのか。

「うん、少し」

 私は親不孝な子どもとして、認識されているに違いない。

 本当はこんな予定ではなかった。大学時代、社会学を専攻していた私はキャリアを積み重ねてバリバリ働く女性を思い描いていた。なのに学生時代から付き合っていた亨と一瞬の魔が差し、気がつけば新しい命を体内に宿していた。

 籍を入れる前に子どもができた。元々亨とは将来的に結婚しようと思っていたし、まあこれはこれでありかなと考えた。問題は田舎町に住む両親のことである。

 最近はできちゃった婚も割合的に多くなっていると聞くが、私が住んでいた片田舎ではまだまだ固定概念に凝り固まっている人たちが大多数。私の両親も、ご多分に漏れずなかなか保守的な人たちだった。

 新たな命は、どくどくと私のお腹の中で脈打った。

 自分の子どもを身籠ったと知った享は、私からの報告を聞いた瞬間文字通り飛び上がるようにして喜んだ。彼がどういう反応をするかわからなかったから心の底からホッとした。

 子どもを身籠ったと分かったときに真っ先に母親に電話すると、「あらあらそれは良かったわねえ」と言ってくれたのだが、どこか様子を伺うような様子だった。これはきっと後ろで耳をそば立てている父を意識したものだろう。

 その後、亨と婚姻届を市役所へ提出しに行った。私はその瞬間から、栗木渚から柚原渚になる。名前の語呂としては、なかなか悪くないと我ながら頓珍漢なことを思っていた。

*

 10分ほど道を走らせると、かつて青春時代を過ごした我が家が姿を現した。遠くで誰かが手を振っているのが見えた。隣には仏頂面の父がまるでこの世界に恨みを持っているような顔をしていた。

 夏の暑さが一瞬冷え込む。蝉のシャワシャワという鳴き声も、ひぐらしの鳴く声も私の耳には届かなくなった。思わず、喉がごくりとなる。

 不思議と隣にいる亨からも緊張感が伝わってきた。果たして父親はなんていうだろう。もう一度私は後ろにいる、私から生まれてきた新しい命をそっと見た。

 きっと大丈夫。たとえこの先どんな困難が私たちの前に立ちはだかろうとも、守るべきものが近くにいれば生きていける。

 誰かを支えたいと思うこと。

 誰かを守りたいと思うこと。

 誰かと一緒の道を歩んでいきたいと思うこと。

 それがきっと、生きる糧になるのだから。

 たとえ親知らずを抜いて痛みを感じたとしても、いつかは痛みが消える。悲壮的な出来事があったとしても、電車はやってくる。夏が消えたとしても、隣には大切な人がいる。

 それだけ覚えておけば、この日常できちんと息ができる。

本日まで集中して小説を書いてました。今日こんにちに至るまでお読みいただいた方々、誠にありがとうございました!この場を借りて御礼申し上げます。


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眠れない夜に

夏の思い出

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