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鮭おにぎりと海 #25

<前回のストーリー>

今日もどこか遠くのほうで、大きな花火が打ち上げられているのだろう。夜だというのに、全く仄暗さを感じさせない。夏の空気は、どこか草原にいるかのような芳ばしさがどこからともなく漂ってくる。

去年、そういえばたくさんの人にもみくちゃにされながらも、大学の友人である楓と、花火を見に行ったことを思い出した。あの日見知らぬ誰かに足を踏まれるわ、誰かが持っていたたこ焼きかなんかのソースが自分の浴衣にこびりついているわ、本当に散々な日だった。おまけに、いちばんのメインである花火自体も、打ち上げ場所に近づくことができず、結局はるかかなたで打ちあがる姿をぼんやりと眺めることしかできなかった。

だから今年は大規模な花火大会に行くことはあきらめ、地元で開催されている数百発打ちあがるのがせいぜいの規模が小さな花火大会に行くにとどまった。それほど打ちあがるわけではないのだけれど、花火が打ちあがる余韻を楽しむだけでも私からしたらとても贅沢な時間を過ごしていることになるのだった。

いきなり大きな幸せが降ってわいてくるなんて人生はつまらない。あくまで、ささやかで小さいながらも生きていることをじんわり感じられる幸せを感じられる人生でありたいと私は常に思っている。

先日戸田くんという男の子と、江ノ島へ遊びに行った。なぜ彼を誘ったのか、今となってはよくわからない。彼は普段あまりしゃべるタイプではなくてどこかミステリアスな雰囲気をまとっている。だから、なんとなく彼のことを知りたいと思ったし、それと久しぶりに江ノ島に行きたいなと思うタイミングがうまく合致したわけだ。

いざ彼と一緒に江ノ島へ行ってみると、ぽつりぽつりと戸田くん自身も自分のことをしゃべるようになった。話だけ聞いてみると、戸田くんは複雑な家庭環境で育ってきたらしい。

あの日からぼんやりと、彼のことを頭の片隅で考えるようになった。なんだか不思議な感覚だった。

戸田くんと出会うきっかけとなったスーパーのアルバイトは、以前と変わらず続けている。ただ、なんだか少しだれてしまっているところもでてきた。どうしたもんかと思っていたら、わたしの家の隣の隣の隣にすんでいるヨネさんが銭湯を経営しているそうで、年も年だから誰か手伝ってくれる人を探しているという話を小耳にはさんだ。

ヨネさんは、毎朝自分の家の前のある花壇に水を上げるのが習慣らしい。朝7時くらいに家を出ると、時々彼女の姿を見かける。夏休みは、私自身生活習慣を見直すことに決めた。夜は11時までに就寝、朝は6時に起床という生活リズムを確立した結果、朝玄関を開けた時にヨネさんの姿を見かけるに至った。

「ヨネさん、おはようございます。3軒先に住んでいる葛原なんですが、今銭湯のアルバイトを募集しているって本当ですか」

花壇に水をかけていたヨネさんの手が止まる。彼女はほかのおばあちゃんと同じくだいぶ背が小さい。私は今150㎝後半くらいの背の大きさなのだが、彼女は私の胸くらいの大きさである。自然と、ヨネさんが振り返ったときその視線は上向きとなる。

ヨネさんは、とんとんと自分のこしをたたき、目を細めて穏やかな声で喋る。

「あら、南海ちゃんじゃないの。ずいぶん見ない間にすっかり大きくなったねえ。おばちゃん、すっかり背ぬかれちゃったよ。もしかして南海ちゃん、手伝ってくれるのかい?」

ヨネさんは、ニコニコとまるで仏様のように微笑んだ。私がこくりとうなずくと、その場で即採用となったのだった。

次の日、わたしは早速ヨネさんが経営している「米の湯」で、まずは夏休み限定という形で働き始めた。新しいことを始めるのは、いつだってワクワクする。

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