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鮭おにぎりと海 #46

シカゴという街は、最初の印象こそ最悪だったが、数日間ぶらぶらしているうちになんだか悪くない街ような気もしてきた。都会はそれこそ目まぐるしく時が流れていくのだが、それと反対に一歩都会から離れて郊外へ行ってみると、逆に時間の流れがゆったり流れていて妙な心地よさに酔いしれるのだった。

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特に気に入ったのは、ブルースだった。

第二次世界大戦時に、数多くの黒人が南部から北部へと移動をした。その何割かがシカゴにたどり着いたことをきっかけにして、急激にシカゴ・ブルースなるものが広まったそうだ。その名残で、今でもシカゴには数多くのブルース・バーが残されている。そのうちの一つが、「KINGSTON MINES」という小規模な箱のお店である。

このお店は、「Old Days Cafe」という場所で出会ったマリーという女の子が教えてくれた。「あなた、シカゴに来たらシカゴ・ブルースは聞いておかないとダメよ。毎晩熱いジャズセッションが繰り広げられて、絶対に聞いていたら胸が高鳴ること請け負いよ。」

直に音楽を聴いてみると、鳥肌がたった。きっと魂を込めるというのはこういうことを言うのだろうな、とその時ぼんやり頭の隅で考えていた。さまざまな楽器がなんの整然もなく吹き荒れている。その意味は計りかねるところがあっても思わず耳を傾けてしまう、そんな演奏だった。

ライブハウスの中にはさまざまな年代の人がやってきていて、シカゴ・ブルースは年代を超えての大衆娯楽だという事を思い知る。若者も老人も小刻みに体を揺らしながら、友人と談笑し、そしてお酒を飲んでいた。その雰囲気がとてつもなく好きだ、と思った。空気の揺れる感じが、個人的に好きだった。

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それから数日、シカゴに滞在した。

そしてシカゴ滞在の最終日、メアリーと約束した「Old Days Cafe」へと赴き、数日前と同じ時間、同じテーブルの席に座った。待つこと30分程度だっただろうか、メアリーがやってきた。最初出会った時と同じように柑橘系の香水を振り撒きながら。あの時と同じささやかな笑みを湛えて。

以前と違うのは、髪を下ろしていたということ。それだけでだいぶ前にあった時とは印象が変わった。つい数日前のことなのに、なんだかはるか昔のように感じる。

「前の大学の講義が長引いちゃったわ。待たせちゃったね。」

メアリーの前髪はスパッと切られたように真っ直ぐで、髪の毛はブリーチをかけたかのようにパサパサとした金色の髪だった。そのことが逆に彼女の神々しさを際立たせているように感じた。

メアリーは到着した瞬間、やってきたウエイターに対して気さくに話しかけ、しばらくおしゃべりをしていた。どうやら昔からの顔見知りと思われる。その時に断片的に会話の内容が聞こえたのだが、その話の中身としては俺と待ち合わせして奇跡的に再び出会えたという話で盛り上がっているようだった。

時間はだいたい正午を回ったあたりで、流れ的にランチを食べることに。彼女とは取り止めもない話をした。今一緒に住んでいるルームメイトのいびきがうるさすぎて眠れなくなった話とか、日本の昔の映画はシブすぎて痺れるとか。

今思うと、本当に不思議な時間だったように思う。ほんの数日前に見知らぬもの同士だったのに、ふとした拍子で人生が交差して同じ時間を過ごす。チリチリ頭のサミュエルもそうだけど、俺はどうやらなんだかんだ人に恵まれた人生を送っている気がする。

いつかの死にかけた夜のことは、遠くに消えてしまった。今その瞬間は少なくとも温もりのある記憶のかけらに包まれていた。人生七転び八起きというけれど、悪いことにはささやかながらも良いことが待っている。そのことに気づけただけでも、救われた気分になった。

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結局メアリーとは連絡先を交わさなかった。だから、運命の再会もその日限り。なぜ連絡先を聞かなかったのか、忘れてしまった。それでも、あの時の記憶は数年後経った今でも確かに頭の中に張り付いている。

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