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不自由な〈秩序〉について 「人類と哲学」/岡本裕一郎

《人類の進歩》を、《哲学という明るみによって照らすこと》で、別角度からの学びを与えてくれる著作となってます。1章から8章に分かれており、明瞭な文章で、理解し易く書かれています。

こんな人におススメ!
・ホモサピエンスに興味がある
・哲学に興味がある
・どちらにも興味がある

以下、本著で印象的だった部分を解説しています。是非、拾い読みして頂いて、気になったら購入してみて下さい。

「本書は哲学の光のもとで、人類史を読み解くことを目指しています。」



消え去る人間とメディア

情報テクノロジー(IT)の社会的意味が、「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」によって明らかにされつつあるということについて、フーコーのパノプティコンを例に説明されています。

パノプティコン ⇒ ポリオプティコン ⇒ モノプティコン

少数が多数者を「見えざる目」で監視することで、多数者はその「見えざる目」を気にしながら、訓練と積み、規律を守る《監獄者》となる。これが、資本主義による資本家と労働者の関係を《牢獄》に例えた、パノプティコンという考え方です。

しかしながら、昨今のIT革命は、そのパノプティコンではすべての状況を語りつくせないのではないか、という疑問へ行きつき、その後にマシーセンによって「ポリオプティコン」という考え方が提唱されます。これは、SNSなどの、自主的で民主的な自己表現の源泉でありながら、多数者がインタラクティブに監視をしあう、《多数者の多数者による監獄》である、ということを説明しています。しかし、ポリオプティコンにおいても、実際には、ソーシャルメディアなどを管理する大型IT企業によって、一律に監視されているようにも見えます。要するに、「パノプティコン的監視」は現代においても逃れられてはいない、という示唆へと繋がります。

また、「モノプティコン」は本著作者命名の用語ですが、《モノ》による《単一》な監視、を意味しています。その《モノ》とはすなわち、AIのことを指します。人間を介在せず、人間を監視するAIによる「パノプティコン的監視」を「モノプティコン」であると記されています。

社会秩序は、COVID-19によってより明瞭に加速度的に、規律社会から管理社会へ移行しましたが、その実態は結局、社会的動物としての規律を順守させているという点において、「パノプティコン的監視」は継続されているということです。「自由な行動」と思われているすべての命題に関して、それは人々が考えうる最大公約数の自由とは大きくかけ離れています。

「メディアそのものが現在、その終わりを迎えているように見える。」

古代人類のメディアの変遷については、本著でも多く語られています。まず、周囲に存在している何かを「感覚」として受け取り、それは「意味」になります。その後、その「意味」が多種のメディアによって「感覚」に変換され、ファシズムやプロパガンダに利用されてきました。(例:映画、テレビなど)しかも、その「意味」⇒「感覚」の変換についていえば、文字や言葉や音声といった初期メディアではなく、昨今はITが主に用いられているということです。

ITによるデジタルメディアが介在する、《意味の変換》については、全てがブラックボックス化され、見え辛くなっています。さらに、今後の進展が期待視される「ディープラーニング」などは、人工知能(ニューラルネットワーク)という、実際に人間の脳のシナプス信号を模したモデルにより、達成しようとする動向があります。

そうなれば、「意味」⇒「感覚」の変換は人工知能(0か1という二進法)という、解読不可能なブラックボックスにより覆い隠されてしまうことは避けようがない事実です。覆い隠されるのは、「(存在しているのかしていないのかもわからない)筆記者(人間)」です。IT的にも、バイオテクノロジー的にも、その進歩速度を凌駕する人工知能が発明されてしまえば、すべてのメディア(文字など)はブラックボックスに吸収され尽くし、生身の人間が語ることや術は、跡形もなく消え去るだろう、という予言的示唆となります。

「人間の拡張」がメディアを示すのであれば、もはや人間自体を拡張せずとも、人間は人工知能という二進法に支配された人工脳に任せてればいい、ということです。それは、メディアの終わり、ひいては人間の終わり(正確に言うとポストヒューマンの台頭)という帰結に繋がるのではないでしょうか。


大衆メディア

本著において、「ソクラテス/プラトン」「キリスト/宣教師」の構図に触れています。その際に感じたこととして、「メディアの強力さ」があります。

ソクラテスは、問答法によってソフィストたちを論破し、「無知の知」を語ったことは有名です。しかしながら、そのソクラテスの教えを伝えたのは、紛れもない弟子であるプラトン本人からでした。ソクラテスの生きていた時代は、フェニキア文字が元のギリシア文字が形成されてから、間もないころでした。「ソクラテスは文字が書けなかったから本を残していなかった」ことも考えられますが、それは「文字が書けても本を残さなかった」という想定も残るため、この議論に関しては空想の範囲を越えません。

ソクラテスは、問答法による「無知の知」を語っていました。それはいわば、文字や書き言葉は「毒」であり、それは「真実の知恵」へと導かないだろう、という思考があったことを示唆します。プラトンは、「ソクラテスの弁明」という書物を書くこと自体が、師弟関係として矛盾しています。これについては、「自己言及のパラドックス」や「遂行的矛盾」と言われているようです。

裏切りのように見えるプラトンの行動は、ソクラテスという師匠のことを思案していたからこその行動である、とも見て取れます。「真実の知恵」が、文字によって語られるものではなく、そっと心の中においてあるような些細なものを発火させる問答であったとしても、それは文字を否定するということには繋がらないのではないでしょうか。要するに、ソクラテスの教えを「文字」というメディアで後世に残すことで、その教えにインスピレーションを受容する人は、少なからず存在するだろう、というプラトンの確信的行動の端緒を見て取れるということです。だからこそ、ほとんどの著書においてはプラトンは黒子に徹しながら、「対話」形式を採用しています。著者(プラトン)における「心を砕かれている関心事」について、文字を用いてオタク的形式で語るよりも、「対話」形式こそが何某かの「想起」に繋がるのでないか、ということを信じて。

そして、「キリスト/宣教師」の構図においても、後に弟子たちがキリストの行動や思考を再構築していくような、大衆メディアの活用による布教がありました。ただし、文字メディアによる著作も同時代にあったことから、キリストはあえて口頭によって下層民の話を丹念に聞き、教えを説いていたといいます。

このようにして、記憶の技術を一新しながら、書物という「想起」の技術へと暫時的に移行することによって、ギリシアの表音アルファベットが浸透し、論理的思考が発展し始めていきました。


世界という書物

ホモサピエンスは、音声からはじまり、言語を習得することで、洞窟壁画のような抽象的な事物や、人相互間によるコミュニケーションを通じて、1種の人類として地球に存在することになりました。その後に、音声言語のみならず、論理的思考や、多読を可能にする黙読が流布するようになった、書き言葉というジャンルも、人の根底を成す本質的な特徴であるメディアとして発展していくことになります。

本著において、「『書物』モデル」というワードが出てきます。実際に書物でもあれば、「書物」を比喩的に使用しながら何かを表現する際にも使われるのが、これにあたります。ガリレオ、プラトンにおいては、各々、「宇宙という『書物』」、「世界という『書物』」というように、機械論的自然観や目的論的自然観などにおいて、このように語られるようになります。この「書物」とは、一種の流行ワード的なもので、「書物」が流通する要因であるグーデンベルクの印刷革命によってもたらされた現象です。

書物が流行しても、すぐさま「識字率」が上昇することはありませんでした。ドイツのプロイセンにおいては、1800年代に義務教育が課されるようになりましたが、ここで一気に「識字率」が上昇していきます。今までは手間だった写本の技術の時代が、ここにきて印刷の技術の時代へと急転換していくことが要因でした。しかしながら、全住民の90%以上の識字率までには、およそ100年後、1900年になってからようやくのこと達成されていきます。そのころには、別のメディアが台頭し始めます。メディアの推移は、停止することのない波のようなものです。

音声で伝えられていた情報とは異なり、「書物」には作者や著作権について、様々な権威が付与されることになります。それによって、「個人主義」が台頭してくるようになります。それだけではなく、物事の真理を見極める力である「理性」も叫ばれることになりました。「書物」の黙読による自主的な学びとは、あくまで自主的なものである以上、その情報というのは脆い可能性も無視できません。そのようなメディアの状況の中で、物事への普遍性を問う「理性主義」も、人々の関心を喚起するには十分な条件がそろっていたのです。(デカルトの「方法序説」には、個人主義と共に理性主義も打ち出しています。)

理性主義(多少の個人主義も加味して)の行きつく先として、「啓蒙思想」があります。これは、「他者に頼るのではなく、自分自身の『理性』を使って自らの内で判断をすること」であり、旧来の伝統や迷信を打破して、科学の発展により社会を変革していこうという思想です。「啓蒙思想」は、「合理主義」、「経験主義」へと、哲学者の論点が分かれていきます。


全人類ビッグブラザー

古代においては、他者が何物かを見る時には、必ず「見世物」の形式をとっていた。寺院、円形競技場などにおいて、「多数の者が少数を見る」形式が、文明の中での様々な催しものでは通例でした。しかしながら、近代に歴史が経つにつれて、その両者の立場は逆転していきます。要するに、「多数が少数に監視される」社会、パノプティコンの誕生です。さらに現在、今にまでさかのぼれば、「少数の者が多数を監視できるし、多数が少数の者を監視することもできる」という、2重形式の構造となっています。

現在において、多くのサービスはITによる企業一括の管理によって成り立つことが多いですが、そのサービスこそ、パノプティコン的監獄を示します。パノプティコン的監獄は、人々に「規律・訓練」を強制させる働きがありますが、このようなサービスによって、今まさに人々が「規律・訓練」されているとは思えないでしょうが、その通りです。サービスの恩恵を得ることにより、何かしらの「規律・訓練」を強制されるような理不尽な状況は現在において想定されていません。電車というサービスは、個人的な感情、いわゆる不平不満のようなものは付きまとっているかもしれません。この感情を、「規律・訓練」させられていることに由来している、と転嫁して考えてしまう人もいるかもしれません。しかし、電車に乗るのも乗らないのも、当本人の「自由」です。それでは、行きたいところに行けなくなってしまうではないか、と思うでしょうが、それはそこに行かなくてもいい選択をすればいいだけで、それも「自由」です。パノプティコン的監獄の側面を持ちつつも、その監獄に「規律・訓練」させる能力は皆無です。社会的秩序を維持するためには、もう1つの構造が必要です。それが、「シノプティコン」です。

シノプティコンとは、「多数が少数を見る」構造です。テレビや映画については、定員の限られた狭い空間で、少数で鑑賞知るのが普通です。しかし、このようなメディアは、同時多発的に大衆を喚起します。それは、テレビや映画館といったメディアの拡大によって成立しますが、そうなれば、少数の人は多数の人に監視され、さらにはそのサービス提供者によって、この状況を逐一監視されることになります。この構造で重要なのは、人々の生活様式や多くの観念、価値観への多大なる影響を容易にする、という点です。ディズニーランドというメディアによって、形容的観念(美しい、かわいいなど)が規定されうるのと同じで、政治的プロパガンダやファシズム的扇動などにも、このシノプティコン的構造を保有しています。この構造は、古代の「見世物」に対応しています。


不自由な秩序

『人々は、法人会社という無形態のビックブラザーに所属しつつも、それに監視され、また他方では、「パノプティコン的監視」を行う立場として虚偽の優越感に浸ることを許可されつつも、映画やテレビ、インターネットなどの大衆メディアである「シノプティコン的監視」によって知らず知らずに先導され、監視しやすくされているだけであり、これらの多重構造によって不可視化されたイデオロギーに基づいて動くような、社会的秩序を遵守する機械である』と、言えるのではないでしょうか。



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