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ジェンダーの海から自分らしさを見つけたい

なぜ
《「自分らしさ」に疑問を抱えるのか?》
《「自分らしさ」に納得するのか?》
《「自分らしさ」に振り回されるのか?》

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「自分らしさ」が起点の思案は、常に外部に接続された自己が、その外部の広い範囲を占めている《分からないもの》に翻弄されていることの証明ほかなりません。

外部に全ての真実が包摂されているわけがない、と理解しているつもりでも、人というものは《他者》や《自分以外》のモノを意識し、切望し、その結果、自己に絶望することで「自分らしさ」を繰り返し問いただし、社会的動物としての存在理由をなんとなく探りながら生きてしまうことは、仕方のないことかもしれません。


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「自分らしさ」の1つの側面には、《ジェンダー(社会的性別)》が挙げられます。異性愛規範に存在し、その規範に取り込まれようとしているLGBTQに代表するセクシュアル・マイノリティは、常に「自分らしさ」との対峙を迫られています。

「自分らしさ」とは、自己に温存されてる「意思」そのものと表現できます。その「意思」とは、自己内部の「闇」に存在しており、多くの場合その「闇」を伺い知ること、また、それ自体への自己認知は乏しいことが多いです。

全ての人間や知識は、ただそこにあるだけである。それについて、調べ、語り、知を引き出し、証明することも、全てが過去の依存だ。なぜならば、推論やレッテルを扱う動作主は、誰かの非合理性をはらんでいるからだ。

「ただそこにあるだけ」とはどういう意味なのか。それは、本当にただそこに観測できるレベルの表像として目に映っているだけである、という意味他なりません。

また、「過去の依存」とは、単なる過去の否定ではなく、過去に存在していた人間や知識は時間の経過とともに無変化ではいられない、という示唆があると思います。「美しい」と形容する対象や意味が、少しづつ変化していることは、数多の年代の人が保持する「美しい」に対する価値観の相違からも明確です。

そして、私自身(動作主)の価値観は、自分の合理的思考であり、不特定他者の非合理的思考とも考えることができます。合理的と非合理的の間には、表裏一体な関係でなく、その各々が溶け合うことによる区分不可能性がある、ということです。そのような、無限合理・非合理的世界において、存在する人間と知識を明確に定義化することができるのは、「神」しか考えられません。

あなたが「自分らしさ」について考えることそのものが《非合理的である》、と知覚することができるのだと思います。


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そのような、「非合理的思考」を乗り越えて今に存在していたいと切望する人間がいることは、ある種の希望、なのかもしれません。

「トランスジェンダー・フェミニズム」の著者である田中玲さんは、トランスジェンダー(性別越境者)です。自由診療でホルモン治療を続ける傍ら、クィアと女性のための新たな共闘の場である、「QWRC(クォーク)」を発足し活動しています。(2006年現在のハナシ)

トランスジェンダーにも、多くの分類がありますが、田中さんの場合は正確に言うと《FTMTX》であると言います。FTMTXとは、生物学的女性と定義され、身体的には男性に見える形にトランスしたが、どちらでもない性別として生きることを決めたトランスジェンダーのことを示します。

この例だけをみても、単なる性別二元論に留まらないトランスジェンダーの「自分らしさ」が見て取れます。生物学的女性で男性にトランス(FTM)したからと言って、女性が好きになるというわけではなく、男性、ゲイ、レズビアン、Xジェンダー・パンセクシュアル、アセクシュアル、インターセックスにそれぞれ性的指向を持つトランスジェンダーも存在するために、分類は多岐に渡り、同時に「自分らしさ」も多岐に渡ります。

(前述しましたが、「自分らしさ」とは無知な人々に共有されている「非合理的思考」そのものでもあります。ただ、可能性として正しい認知が外部に広まれば、それは「合理的思考」に辿り着くことも可能という意味もあります。)

要するに、トランスジェンダーは、《性器の処理に関する違い》や、上記に記載した《トランス後の性的指向の相違》が重なることで、様々な様相を呈する、ということです。

田中さんは、男性へ越境することを望みましたが、社会的性別を男性に書き換えることは望んでいません。また、ポリアモリーでありオープンリレーションシップを愛の形と認識しているパンセクシュアルでもあります。そして、過去女性として生きた自分を消し去り新たな自分になりたいと思っていないのです。

女性として生きた自分を《確かにあった過去》として心に刻み、トランス男性として生きていることで見えた「男性から見た女性」をいう視点をもつ《性別の境界線に立つ者》として、トランスジェンダーの視座からフェミニズムへともたらしうる何かを模索する、現在に蔓延る「非合理的思考」を超越しながら、究極の「自分らしさ」を探索する人物なのです。


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田中さんの覚悟と意気込みと生(性)への挑戦は目を見張るものがある、と心底感心します。昨今のSNS社会において、このような希望も無限の人々に共有された「無意識」によって阻まれてしまうかもしれない危うさがある、ということを認知する必要がある点について、以下の著書から読み取ることもできます。

「欲望会議」は、セクシャリティがゲイの哲学者と、フェミニズム活動家の現代美術家、異彩を放つAV監督、3者による鼎談本です。

共同の外部化された無意識を、私固有のものにしてしまうことは、過剰な関係妄想であり、「接続過剰」ともいえるのではないか。

まず「無意識」とはなにか。前述した通り、「無意識」というのは言葉そのものでしかありません。いわば、「無意識」という言葉が発明されてから今に至るまでに「無意識」は無限にやり取りされ、無限の意味が付与されているからです。ですが、ここではあえて「無意識」について明記しようと思います。

「無意識」=「闇」

自己認識や光すらも届かないような、深層心理に働く意識のこと、と考えます。そして、ある種の好奇心を満たす要素は、この「闇」自身の力であると思います。今ある知識ではなく、その知識から何を解釈し、何をアハ体験的に捉えることができるのかという、自分との格闘でもあると思います。

格闘が行われる競技場は、一切の光が届かない宇宙的な「闇」に支配されており、その闇に包まれた競技場が内包されているのが「無意識」と呼べるのではないでしょうか。

このような「無意識」があったからこそ、メタファー要素を含む様々な宗教やアートが勃興し、人々へと流布されてきました。また、「無意識」に内包される種々の《衝動》は無意識的抑圧下に存在し、それを何かしらのコミュニケーションツールで表出が可能である反面、それは有耶無耶な表現でしか存在することができません。

自己の傷を元にした「無意識」は、それ自身が内部のみに保守されることで、いざと言うときに力を発揮するエネルギーのようなものでした。しかし現在は、SNSなどによるネットワークサービスにより、「無意識」は外部化され、「無意識」の蒸発は後を絶ちません。「無意識」世界を内包する「闇」には、多くのスポットライトが浴びせられています。

その1つは、《ジェンダー(社会的性別)》に関した「無意識」世界の外部化が例として挙げられると思います。自身の傷として「無意識」化しているセクシュアリティが、不特定の誰かに明示された「無意識」という光に照らされることで、無防備な状態であらわになります。それにより、その傷をえぐるような道具となってしまう懸念があります。

さらに、この「無意識」が広く外部に伝わることで、《ジェンダー》に関した無限のやり取りが開始されてしまうことは最善ではないと思います。それはいわば、「非合理的存在」としての《ジェンダー(社会的性別)》の始まりであり、「自分らしさ」の喪失に繋がってしまうこと、この点が最も問題です。

異性愛規範に迎合するような、きわめて保守的なセクシュアルマイノリティでさえ、「自分らしさ」を考えることがあると思います。異性愛規範に従事し国家へ献身していく過程で「自分らしさ」を発見する当事者もいるかもしれません。しかし、本来の意味での「自分らしさ」は、既に消失している、若しくは消失しかけていることに対して、最低限の認識とその事実を受けとめる心の余白が必要です。


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「自分らしさ」とは、シミュラークルの円環に囚われていると見て取れます。「無意識」「闇」から湧き出た本当の意味での「自分らしさ」感じることは、もはや不可能なのかもしれません。それは絶望でもあり、また一方で、更なる欲望を生み出す希望でもあるのかもしれません。

そのような、「無意識」の復活(言葉的には矛盾してしまっていますが)として存在するのが、「クィア」な視点を保有する《クィア・スタディーズ》であるとも考えることができます。

《クィア・スタディーズ》については、「LGBTを読み解く」におおまかな概要が明記されており、以下の記事で纏めています。

否定的要素である外部化された「無意識」を、再度内部の「無意識」に呼び込み、再構築する作業を《クィア・スタディーズ》では実践しています。

これは、他者との相互関係を余技なくされる現世では日常的行為ですが、行為の起点となる《外部化された「無意識」》に対してあらゆる疑問を保有していない人が多いことが問題になります。この問題に対してメスを入れ、マイノリティの捉えなおしに活用する視座が《クィア》という研究系体であり、その概念である、ということです。

《クィア的視座》において考慮されうるバイセクシュアルですが、バイセクシュアルにはポリアモリーが多い、ということも「ポリアモリー 複数の愛を生きる」に記されています。(勿論バイだけではなくヘテロ男女や、ゲイ、レズビアンにもポリアモリーは存在しています。)

ポリアモリーとは、様々な形態によって、複数の人と交際したり婚姻を結んだりする、究極の《信頼》において成立する愛の1形式と言えます。マジョリティであるモノガミー社会(1対1社会)においては、かなり異質に映るポリアモリーですが、この複数愛的形態こそ、太古の昔に自己の「無意識」「闇」から追放した/された、「自分らしさ」の最終地点である、とも読み取ることができると感じました。

ポリアモリストは自己/他者への執着を否定し、お互いに愛し合うことを理想とする。嫉妬が生じることも仕方のないことだという認識を持ち、そうした苦しい現実をも受け止めていこうというのがポリアモリーの基本姿勢である。

ポリアモリストたちは、本気で「複数の人を愛する」のです。

例えば、既婚男性と交際をする女性は、彼の妻に迷惑が掛からぬように配慮し、自身をコントロールします。それは、うまく彼の妻と上手に彼をシェアしたいという気持ちからくるものです。しかし、彼の妻からはそのような配慮は一切受けることはありません。なぜならば、彼の妻は裏で交際している女性のことを知らないからです。

上記は、モノガミー社会で言う《不倫》にあたりますが、これは行く当てのない配慮を無限に行い、一生返還されることのない苦労を重ねるだけの、虚しいものです。

ポリアモリストの場合、例えばトリプルカップル(例:バイ男性×バイ男性×ヘテロ女性)であっても、共有する《愛する人》に対して、同様に配慮し合うような、きわめて人間らしい関係がそこにあると言います。そこには、双方向的な自己への配慮、他者への配慮、そして自己犠牲で成立する、というような、安定した人間関係を築こうをいう意思をも感じ取れます。

その様な配慮、いわば自己犠牲が払えるのは、本気で3人が愛し合っていること他なりません。ポリアモリーは、自分とは異なる何かを本気で知りたい/愛したい人には、共有すべき視点であるのかもしれません。


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「自分らしさ」ってどこにあるの?

「自分らしさ」はどこにも見つけることのできない、不可視なものなのだと思います。しかし、「自分」を少しでも「自分らしい」と認識したいという欲求は常に付きまとうものです。ならば、その手段としての「問い」を常に携えて、真っ向から解釈し、自己の無意識に落とし込みながら言語化する作業を日常的に行う必要があるのかもしれません。

「自分らしさ」を見つけたい/見つけた、ということは、どこまで行っても自分のエゴなのは変えようがありません。このような、絶望的観測を今実感し、「問い」を自己から生み出し、行動に移し、来るべき時に備えることは、難しさを伴うかもしれませんが、その反面今すぐ実践できる作業でもあります。

「自分らしさ」を知るために、「非合理的思考」に晒されて出来上がった様々な人の「自分らしさ」に触れることで、その中に内包されるメタ的要素を掬い上げる能力を磨いていき、「自分らしいとおもわれる自分らしさ」をちょっとずつでいいから積み上げていきたいと、心底思い知らされました。

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