仮説もゴールもない実験の中で

老人が溢れかえる社会は、おそらく有史以来経験がない。
そのせいか、今世間で行われているありとあらゆる高齢者に関する政策や方策が、全て実験のように思えてしまう。
そしてその実験の被験者も実行者も、社会に生きる我々である。


先日のこと、ラーメン屋でトラブルに遭遇した。
初老の女性アルバイトの券売機トラブルの対応が悪く、お客さんが怒って帰ってしまったのである。
女性アルバイトは終始仏頂面で「理解できない」という面持ちで対応しており、それにお客さんが不快感を示したのである。

こういうシーンを見ると、高齢者を戦力としてどう活かすかが難しいと思い知らされる。
人手不足の大義名分の下で、いたずらに高齢者を採用することは、誰も幸せにしない可能性が高い。
対峙する客や社員は自分たちより年下で、素直に従える人などレアだろうし、
いろいろな知識やトレンドの吸収を怠っている高齢者の場合は、そもそも共通言語での会話が成り立たない。
(そもそも上記と対極をいく高齢者は、すでになんらかの形で活躍済みだろう)

しかしながら、社会の潮流は定年制の廃止と、文字通りの終身雇用である。
戦力としては怪しい高齢者を、会社内に留めざるを得ないこともあるだろう。
さながら「会社内老人ホーム」である。


社会が高齢化するということは、ありとあらゆるところが高齢化することと同義である。
つまりは、いろいろなところが「老人ホーム化」する。
会社だけではない。道路も高齢化が著しい。
それ故に、老人絡みの事故のニュースを見ない日はないといっていい。

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人が長生きもしくは不老不死の願いを持つ場合、個人的なゴールや想いがあると思う。
ずっと先の未来を見てみたいとか、子供や孫の成長を出来るだけ見届けたいとか、概ねそういうところだろう。

そういう個人の願いを叶えるため、医療や薬学は進歩を遂げてきた。
結果として、日本は世界トップクラスの長寿国家になることができた。


ところが実態はどうだろうか。
長寿が本当に社会的に有益なのだろうか。

そもそも、長寿や不老不死の「社会的なゴール」は考えられてなかったのではないだろうか。
個人レベルでのゴールはあれど、集団としての高齢者にどのようなゴールがあったのかは、正直なところよくわからない。
つまりは「高齢者が増えた社会ではこういうことを実現しよう」というビジョンだ。
それが見えてこない。

不幸にも、高齢化社会で噴出した諸問題に対しては、個人の尊厳と社会性の狭間で議論が進まない。
免許制度一つを取っても、取り上げるべきという主張と車がないと生きていけないという主張が、ずっと前から対立している。
そうこうしているうちに、老人が暴走を起こして命が奪われ、国民に「反老人」の機運が巻き起こる。

こういった「反老人」の考えは、長生きや不老不死を望む個人的な欲望に真っ向から対立する。
簡単に言えば、個人レベルでは「おじいちゃん長生きしてね」であるのに、社会的には「老人死ね」な訳である。

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「実験に巻き込まれている」と冒頭に書いたが、そもそもそういう意識で生きている人など、ほとんどいないだろう。
そういう感覚で生きている人間ばかりだと確かに怖いが、だからといってゴールや仮説を意識しないのも、それなりに問題なんじゃないかと思う。


一つだけわかっていることは、「この実験の結果がどうなるのか、誰もわからない」ということである。
でも、「なぜ自分は長生きしたいのか?」という問いに自分なりの答えを持つことで、「わかる」に近づけるかもしれない。


(書き始めからものすごい時間をかけて、やっと完成した本記事。その間に「老後の生活には2000万円必要」という財務大臣の発言があったが、これはあながち間違っていないと思う。
一部の野党は怒っているが、国民がそんなでもないように見えるのは、おそらく野党よりも国民の方が覚悟ができているからだろう。もう国民は、そういう自体に備えて留保をたくさん確保している。みんながお金を使わなくなったのは、そういうことだろう)

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