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信長公記

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太田牛一氏著作の、織田信長の生涯を描いた作品・「信長公記」。信憑性の高い本として有名として、古くから読み継がれてきました。  織田信長はどんな風に成り上がったのか?どんな風に乱…
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記事一覧

(50)能見物、(51)信長、将軍家から感状をいただく

「このたび、身を捨てて働かれた人々に、慰労のため能を見物させたら良い」とのご上意で、観世…

だい
1か月前
15

信長公記(49)信長、足利義昭をいただき入洛

9月7日、義昭公に「近江(滋賀)を討ち果たし、入洛しましょう」と約束を交わす。その日中に…

だい
7か月前
6

信長公記(46)~(48)

(46)足利義輝、自害 永禄8年(1565年)5月19日、足利義輝とその弟周暠氏が自害。…

だい
1年前
4

信長公記(45)足利義昭、信長に頼り上洛

1568年、足利義昭は六角義賢を頼るも断られ、越前の朝倉義景にも断られた。 そこで、義昭…

だい
1年前
3

信長公記(44)信長、美濃稲葉山へ移る

1566年4月上旬、信長公は斎藤龍興と合戦。 1567年8月1日、美濃三人衆(稲葉良通・…

だい
1年前
6

信長公記(43)信長、堂洞砦を攻める

舞台は加治田城。城主は佐藤紀伊守・右近右衛門(40参照)。 風が強いということは、火の手…

だい
1年前
7

信長公記(42)美濃宇留摩・猿ばみ両城、落城

信長公の調略が功を奏するときが来た。 犬山城の周りから落としていこう、という考えか。 陣を敷いただけで明け渡すことなどあるのだろうか。そうであれば、そこに陣を敷かれないように手を打つべきだったか。ともかく、争わずして宇留摩城を落とすことが出来た。 かくして、宇留摩城と猿ばみ城は落城した。着々と斎藤攻めが進んでいく。

信長公記(40)、(41)

(40)美濃加治田の城、信長に従う この時期は、犬山付近の場所を奪うための戦略を練ってい…

だい
1年前
7

信長公記(38)於久地の砦を破る、(39)信長、小牧山に移る

斎藤家と一進一退の攻防が続く。 大口町の砦を奪った。ここは、斯波氏の守護代を補佐する役割…

だい
1年前
6

信長公記(37)十四条合戦

信長の快進撃は続く。 一帯を焼き払い、墨俣に要害を築くよう命じ、そこに在城した。 十四条…

だい
1年前
3

信長公記(36)森部合戦

桶狭間合戦の1週間前の出来事。戦乱の世は一日たりとて無駄にできないことがわかる。 安八郡…

だい
1年前
4

信長公記(35)岩倉落城

永禄2年(1559)初春ころ、信長公は岩倉を包囲、町に放火し、裸城にして四方に鹿垣(竹木…

だい
1年前
5

信長公記(34)浮野合戦

清州から故・織田信安一族の居城岩倉へは30町(約4キロ)に過ぎない。 しかし、この方面は…

だい
1年前
3

信長公記(33)信長、吉良・石橋・斯波3守護を追放

尾張国のはずれの海近くに石橋殿(吉良・武衛の一族)の御座所があった。 河内(木曽川下流地域)の服部左京助は駿河衆(今川勢)を海上から引き入れようと謀り、吉良・石橋・武衛殿3人が談合、謀反半ばで家臣の中から謀りごとが漏れ聞こえてきたので、信長公はすぐにこの3人を国外へ追放された。