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信長公記(38)於久地の砦を破る、(39)信長、小牧山に移る

斎藤家と一進一退の攻防が続く。

6月下旬、於久地(現在の大口町)へ出兵。小姓衆の先駆けで城壁を打ち破って押し入り、数時間に渡って戦い、味方10人ばかり負傷。
若衆の岩室長門守、討死。誰一人知らぬ者はいないほどの有能な人物だったため、信長公も惜しまれることひととおりでなかった。

大口町の砦を奪った。ここは、斯波氏の守護代を補佐する役割を担っていた織田信近という者の城。国のトップの補佐ということで、それなりに堅固な城だったことがうかがえる。信長公の下剋上がほぼ完成しつつあった。

(39)

信長公は優れた軍略を持っていた。清州は尾張の真ん中に位置し、富裕の地。ある時、身内を連れて二の宮山(現在の犬山市)へ上って、この山に要害を築くよう命じられた。

斎藤家攻略のため、目を北に向け新たな城の場所を探していた。
三河の地は徳川家康と同盟を結んだ関係で、力を入れる必要がなくなったのだろう。

家臣は、「この山中へ清州の家宅を引っ越しするということは、まことに難儀だ」と不満を申す者ばかりだった。

それを聞いたのか、信長公は、

「小牧山へ移ろう」と言い出された。

小牧山はふもとまで川が続いていて、資材・雑具を運ぶのに容易な土地だった。みな、喜んで引っ越しをした。
もし、初めから信長公が「小牧山に移る」と言っていたら、それはそれで家臣たちは不満を申しただろう。

於久地と小牧山は20町ほどの距離。敵が小牧山城が完成していくのを見て、於久地の城は明け渡して犬山の城に立て籠った。

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