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信長公記(40)、(41)

(40)美濃加治田の城、信長に従う

美濃国に宇留摩城(現在の鵜沼市。大沢基康の居城)・猿ばみ城(多治見修理の居城)が並んで2城、犬山城の川向うにあった。
ここから5里奥の山中に北美濃の加治田というところに、佐藤紀伊守とその子息の右近右衛門がいた。

この時期は、犬山付近の場所を奪うための戦略を練っている時期だった。
(39)で小牧山に城を移し、尾張国内の統治もほぼ完了していた。

ある時、岸良沢(大沢基康の家来)が使いに来て、「信長公につきます。采配は信長公にお任せする」と丹羽長秀を通じて申し出てきた。

おそらく、丹羽長秀を派遣して調略をしたのだろう。犬山を落とすため、周りの城主の調略に駆け回っていた。

信長公はかねがね美濃国内での味方を望んでいたため、とても喜んだ。
「まずは兵糧を整え、蔵に入れて置け」と指示をした。
岸良沢には黄金50枚を献上した。

(41)犬山城両家老、信長に従う

ある時、犬山城家老の和田新介(黒田城城主)・中島豊後守(於久地城城主)の両人が信長公に忠節を尽くす旨を丹羽長秀を通じて申し上げた。

信長公の名声はますます上がるばかり。桶狭間合戦で今川義元を破り、さらには尾張国内での下剋上も成し遂げた信長公に勝てるはずもない、そう判断する者が増えてきたのだろう。次々に信長公に寝返っている様子がうかがえる。

信長公は両人を味方に引き入れ、犬山を裸城にして、四方に鹿垣ししがきを二重・三重に結い回し、取り囲んで丹羽長秀が警護にあたった。

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