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信長公記(43)信長、堂洞砦を攻める

舞台は加治田城。城主は佐藤紀伊守・右近右衛門(40参照)。

美濃方(敵)の長井隼人正(道利)は(裏切った)加治田へ攻め、25町離れた堂洞どうほらに砦を構え、そこに岸勘解由左衛門・多治見一党を入れた。
道利は関から50町ほど離れた場所に布陣。
信長公は、堂洞に砦があると加治田城が落とされるかもしれない、と思い出陣。堂洞は三方が谷、東だけ丘が続いている難所。攻撃した日は風が強かった。
信長公が視察し、「塀際へ寄り詰めたら、松明を投げ入れよ」とご下知なされた。

風が強いということは、火の手があがれば燃え広がるのも早い、ということ。

道利も堂洞砦の下25町まで来たが、それ以降動きはしない。
信長公の軍は堂洞砦に松明を投げ入れ、二の丸を焼き崩し、天守櫓を攻めた。

太田牛一がただ一人二の丸入り口の高いところに上って、矢を放っていた姿を信長公がご覧になり、「気持ちいい見ものをするものだ」と感心された。

正午に城を取り巻いてから18時頃まで攻め続けた。
薄暮になった頃、河尻与兵衛が天守櫓に乗り入れ、丹羽五郎左衛門・多治見一党が活躍した。城中は敵味方入り乱れる混戦。大将分の者は皆討ち果たされた。
夜、信長公は加治田城へ出向き、そのまま加治田城に宿泊。
佐藤紀伊守・右近右衛門父子は感涙し、言葉がなかなか出なかったほどである。

窮地に立たされた者を救う信長の姿。危機に瀕した時にさっと助けてくれる人は尊い。

翌29日に首実検。帰陣の際に、関から長井道利、稲葉山から斎藤龍興が攻め寄せてきた。その数およそ3,000。
対する信長公の軍は7~800ほど。信長軍は颯爽と退いた。
敵は、「信長公に逃げられ、残念だ」と嘆いた。

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