(50)能見物、(51)信長、将軍家から感状をいただく
「このたび、身を捨てて働かれた人々に、慰労のため能を見物させたら良い」とのご上意で、観世太夫(元尚)に能を演ずるよう仰せ付けられた。
脇能の「弓八幡」をはじめとしてすべてで13番あるが、信長公は「まだ隣国の平定も成せていないので、5番まで縮めたい」と仰せられた。
初献のお酌は細川藤賢氏。信長公に対し、久我殿(晴通)・細川兵部大輔、和田伊賀守が再三お使いにたたれた。
信長公は、副将軍もしくは管領職に任ずると仰せられたが、辞退した。
このことについて、「世にも珍しい信長公のなされ方である」と都でも地方でも、みな感じ申したことであった。
信長公は、役職に興味がなかったのか。役職によって、威信が高まり、隣国近辺の大名も臣従をすることにつながるだろうに。
脇能と「高砂」は、観世左近太夫・今春太夫・観世小次郎が担当。
おおづつみは大蔵二介、小づつみは観世彦右衛門、笛は長命、太鼓は観世又三郎が担当した。
二献のお酌は、大舘伊代守(晴忠)であった。信長公はそこで義昭公の御前に参られる。
三献下された上、義昭公のお酌で盃を受けられ、お鷹、腹巻(鎧の一種)を拝領なさる。誠に名誉なことであった。
二番の「八島」は、おおづつみが深谷長介、小づつみは幸五郎二郎が担当。
三献のお酌は一式式部少輔殿(藤長)であった。
三番は「定家」、四番は「道成寺」を上演。
義昭公は信長公に御つづみをご所望になった。しかし、信長公は辞退した。
おおづつみは大蔵二介、小づつみは観世彦右衛門、笛は伊藤宗十郎である。
五番は「呉羽」を上演。
お能が終わってから、一座した者に対し、田楽・かつら師に至るまで信長公からお引き出物を下された。
その後、信長公は天下のために、街道を往来する旅人を気の毒に思い、関所の税を廃止された。これによって、都市・地方の高下の者を問わず、「誠に有難い処置である」と満足した次第である。
10月24日、帰国の暇を告げる。
10月25日、感状をいただく。
(51)信長、将軍家から感状をいただく
前代未聞の名誉おは重ね重ねのことで、筆にも言葉にも表せないほどである。
10月26日、信長公、近江の守山まで下がる
10月27日、柏原の上菩薩院で宿泊。
10月28日、美濃の岐阜城に帰宅。
信長公記 第1巻 終
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