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信長公記(46)~(48)

(46)足利義輝、自害

永禄8年(1565年)5月19日、足利義輝とその弟周暠氏が自害。

三好長慶が天下を掌握し、三好一族が足利義輝を自害に追い込んだのである。

ここに一人の武将、美濃屋小四郎という人物がいた。討っ手の大将・平田泉守を切り殺し、その後主人のお供をして切腹。年齢は15,6の若者だった。

足利義輝は源義家の家系。いよいよ下剋上の象徴となる出来事が起きた。

(47)足利義昭、佐々木・朝倉氏を頼る

さて、次なる足利家の相続人・義昭には、「興福寺を相続するのあれば、手出しはしません」と三好長慶、松永久秀と言った。

義昭は身の危険を感じ、和田惟政とともに近江国・六角承禎の元へ。
しかし、六角承禎は難色を示した。
次なる家は朝倉家。朝倉義景を頼った。しかし、朝倉義景は優柔不断で簡単に受け入れることはしなかった。

(48)信長、義昭を援助

義昭は悩んでいた。次なる家は美濃国・織田信長。
信長公はこれを快諾。
永禄11年(1568年)7月25日、越前から義昭公をお迎えするため、和田惟政・不破光治・村井貞勝・島田秀順を使者に向かわせた。

8月7日、信長公は六角の元へ。「義昭を受け入れよ」と指示を出すも、六角は断った。
信長公は、六角征伐をすることに決めた。

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