見出し画像

信長公記(34)浮野合戦

清州から故・織田信安一族の居城岩倉へは30町(約4キロ)に過ぎない。

しかし、この方面は要害の地であると信長公は考え、3里上って岩倉の後ろへまわり、足場の良い方から浮野(一宮市)に軍兵を構えて、岩倉方へ足軽を仕掛けられると、敵方からは3000人ほどの兵がのんびりと出てきて防いだ。

永禄元年(1558)7月12日(正午頃)東南に向かって切りかかり、しばらくの間戦って、敵を追い崩した。

岩倉方の浅野村に林弥七郎という評判な弓達者の者がいた。弓をもって退いて来たところを、鉄砲の名人・橋本一巴が渡り合ったが、両人はかねがね親しい間柄だったので、林弥七郎は一巴に声をかけ「見逃しはせぬぞ、覚悟せよ」という。

一巴も「心得ている」と答えるとあいか(矢じりの一種)の4寸ばかりのものをしこんだ矢をつがえ、立ち戻って放し、一巴のわきの下へ深々と射立てた。

一巴も2つ玉(弾丸2つ)をこめた筒を肩にあてて放ったから、弥七郎はうち倒れた。

それを見て信長公の小姓衆の佐脇藤八が走りかかって林の首を討とうとすると、林は座ったまま太刀を引き抜いて、佐脇藤八の左ひじを鎧小手ごと上から打ち落とした。

(佐脇は)ひるまず組み付いて、ついに首を取った。

林弥七郎の弓と太刀との働きは、比類ない有様だった。

信長は清州へ軍兵を収め、翌日首実検。1250余りの首があった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?