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信長公記(36)森部合戦

永禄3年(1560)5月13日、木曽川・飛騨川の大河を3艘の船で超えられ西美濃に出陣。その日は勝村に陣を置かれた。

桶狭間合戦の1週間前の出来事。戦乱の世は一日たりとて無駄にできないことがわかる。

14日は雨が降ったが、敵(斎藤義龍)は墨俣から長井甲斐守、日比野下野守(清実)を大将として森辺口(安八郡森辺)へ兵を出した。

安八郡森辺は今でいう安八町。岐阜羽島市の北。斎藤龍興の本拠地である稲葉山城から南西へ2~3kmくらいのところ。墨俣からは南へ1kmくらいのところ。

信長は「これこそ好機」と楡俣にれまた川を渡り、合戦となった。
槍で打ちあい、長井甲斐守・日比野下野守をはじめとして170余人の者が討ち取られた。

斎藤軍は大将2人を失う大敗北。

このとき、哀れな話があった。近江猿楽(近江国を中心に活動する猿楽の座のこと。芸術の分野のもの)の連中が美濃へやってきたとき、若衆(男色の相手)が2人いた。1人は甲斐守、1人は下野守に仕えていたが、2人ともこの戦で主従と枕を並べて討死した。
長井甲斐守は津島の服部平左衛門が討ち取る
日比野下野守は津島の恒河久蔵が討ち取る
神戸将監は津島の河村久五郎が討ち取る
首二つを前田又左衛門(利家)が討ち取る

前田利家が2人の首を討つ活躍。そのうち1人は、美濃国では知らぬものがおらぬほどの豪傑だったそう(足立六兵衛)。前田利家は、織田信長の小姓を斬った罪で勘気に触れ、蟄居処分となっていたが、桶狭間の活躍、今回の森部合戦の活躍があり、赦免となった。


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