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母の愛は世界を崩壊へ導き、世界を救う【Netflix映画『ブラック・クラブ』の描く母性のカタチ】

つい最近、Netflixオリジナル映画『ブラック・クラブ』を観た。

スウェーデン版ミレニアムシリーズで"ドラゴン・タトゥーの女"ことリズベットを演じ、その後エイリアンシリーズ前日譚『プロメテウス』で主人公も演じ(個人的にはこの役は好き!)、『セブン・シスターズ』ではなんと!1人7役を演じ切ったノオミ・ラパス主演のディストピアSFということぐらいしか知らなかったが、氷上をスケートで優雅に滑りながら完全装備の兵隊が移動するバカほどカッコいいビジュアルがとにかく印象的な映画だ。

今回はこの映画について、軽くお話ししようと思う。
前半はネタバレ無し、後半はネタバレ有りでお話します!

【ネタバレ無】超ベタな設定に、スパイスは"母の愛"

あらすじは、何やら地球規模の世界戦争が行われている近未来のスウェーデン。兵士6人の小隊は戦争を終結できるといわれる"容器"を凍結した海をスケートで渡り運ぶという「ブラック・クラブ作戦」なる任務を受けるが、状況は過酷さを増し任務への不信感から仲間割れを起こす。その容器の中身を知ってしまった主人公エドはある決断をする。

あらすじだけだとかなりベタでいわゆるマクガフィン物であるが、この映画は古典的な手法を取りながらもテーマは"母の愛"に絞られている。

主人公のキャロリン・エド(ノオミ・ラパス)は戦争が始まってすぐ娘と生き別れになってしまい、それからというものこの戦争を各地で転戦しながら娘を探し続けている。

もちろん戦時なので消息も分からなければ生死も不明である。そんな絶望的な状況で「ブラック・クラブ作戦」の司令官から娘の生存を写真と共に知らされ、ここからこの物語は動き出す。

「この作戦の執着地であるアーダーという地に娘もいる」
そう知らされた彼女は仲間の誰よりも強い意志でこの任務へ闘志を燃やす。

つまりこの主人公にとってこの任務は「戦争を終わらせる」という大義の為の戦いではなく、娘との再会という母としての戦いでもあるのだ。

しかし次第に状況が変化していき、彼女の母としての愛情は残酷な真実と対峙せざるを得なくなってゆく。

さて!ネタバレ無しでのお話はここまでです!
ここからは壮大にネタバレ有りでお話しますので、まだ観てない方が是非とも観てからお読み下さい。

映画メチャメチャ暗いけど、こういう撮影は楽しいだろうなぁ~

【ネタバレ有】母の愛は世界を壊しうるし、救いもする

先にも書いたように主人公エドは娘を必死に探し、戦場を彷徨う母親です。娘に会いたいがためにどのような犠牲も払い、そのためなら仲間を手にかけてさえも娘の居るアーダーへと向かおうとします。

ここで重要になるのは、彼らが運んでいた容器の中身。
それは全人類を死滅させかねない生物兵器でした。

司令官が言っていた「戦争を終わらせる」は、敵を一網打尽に出来るとか、交渉で平和をもたらすとか、そういった解決法ではなく、我々以外の人類を壊滅させることに他ならなかったのです。

ウイルスをばら撒き、その効果が消えるまで、このアーダーに残った一部の人間のみ地下に潜伏し生き永らえようという計画でした。

そして、このエドに知らされた娘の生存情報も嘘でした。軍部はエドの母親という立場を利用し、その母性からもたらされる執念に賭けていたのです。

エドはその思惑通りに、確固たる信念をもって任務を遂行しました、娘に会いたい一心で。

しかしそれが仇となり、軍のウイルス計画は失敗します。

娘がアーダーにいるかどうかも不明で完全に騙されたことを知ったエドは、この世界のどこにいるかも分からない娘のために、次はこのウイルス計画を阻止すべく再び戦いを挑みます。

そこにあるのは常に娘を思う母の愛の力に他なりません。娘の無事を願うからこそ彼女は自らの手を汚し、命をかけて戦い続けられるのです。

母の愛の凶暴性を描いた仏教神話

さてさて、ここまでは『ブラック・クラブ』のお話でしたが、ここからはこの映画を観て思い出したある仏教神話のお話をしましょう。

それは鬼子母神伝説です。

鬼子母神は子沢山な女神で、500人もの子供を育てる為に人間の子を捕らえて食べていました。そのため人間たちから恐れられる存在でしたが、釈迦はそれを解決するために鬼子母神の可愛がっていた末っ子を隠してしまいます。

自分の子供が居なくなり探し続けても見つからない。ついに半狂乱になった鬼子母神は釈迦へ助けを求めるのです。

すると釈迦は「一人の子を失うだけでもそれだけ気を病むのに、お前に喰われた人間の子の親たちはどんなに悲しいか分かってんのか!てめぇッ‼」と叱りつけ、その言葉に心を動かされた鬼子母神は三宝へ帰依(仏の道を歩むと決めること)し、子の安全と健康、そして安産の願う女神となり、末っ子も無事に帰ってきましたとさ。

というお話です。
この逸話は母の愛情の強さと恐ろしさ、そして子を思う気持ちがあればこその自身の魂の変容させる、しなやかさを表しています。

エドの子を思うが故に、どのようにも残酷になれる冷徹な力強さには「子供に一目会いたい」という一心があり、それは消えた末っ子を探す鬼子母神の姿に重なり、そして同じ子供への愛情であるにも関わらず、終盤で自身の命を捨てても子を守ろうするエドの姿も、釈迦の言葉(=真実を知ること)によって心を入れ替えた鬼子母神の姿に重なります。

こう考えるとエドという母親にとって、子供という存在は「世界そのもの」だということが分かります。それはもちろん至極パーソナルなことに他なりませんし、自分の問題と世界を同一視するのはある種の危険性を帯びているという問題がありますが、裏を返せばそれほどまでの力を女性は持ちうるという可能性の物語であるという見方もできます。

この映画を通して女性という性の中にある本質的な精神の強さを改めて痛感すると共に、そこに宿る愛情の深さには脱帽する思いです。

【余談】実は『エイリアン2』も、母親の物語

ここからは余談ですが、この映画を観ていて思い出した作品のもう一つがジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』です。

戦争だー!!

この映画では前作で唯一の生き残りになったリプリーは、ノストロモ号から脱出し、凍結状態のまま宇宙を彷徨い、なんと57年間の月日が過ぎ去ってしまっています。

リプリーは一作目で小さな娘を地球に残して宇宙航行に就いていたわけですが、その娘とはそれっきり会えないまま、リプリーの乗った脱出ポッドが発見される二年前に娘は他界してしまっています(涙)。

エイリアンとの死闘の末に生き残った彼女が、その目的であり希望であった娘がもう存在しない時代に来てしまったのです。

そして何の因果か、リプリーは再びこのエイリアンと戦わざるを得ない状態なっていきますが、そこにはこのエイリアンの襲撃で生き残った少女・ニュートがいることが判明します。

彼女のなかで生前に会えなかった娘と、いまたった一人で助けを待つニュートの存在がシンクロし、脱出へのカウントダウンが迫る中でリプリーは単身エイリアンの女王である"クイーン"の元へ向かいます。

クイーンは分かりやすくいえば、リプリー達を懲らしめていた小型(人間サイズ)エイリアンの親玉で、女王バチの様に巣の中心に鎮座し、何体ものエイリアンを産み落とす母親でもあります。

ご存じの通り、エイリアンの幼虫フェイスハガーはその他の生物を宿主にして帰省し、その体を突き破って成長しますよね。

不思議なことにこのクイーンとエイリアンの生体の構造も、多くの子供を養うために人間の命を犠牲にする鬼子母神的な要素が多分に含まれていると感じます(デザイナーのギーガーや監督のリドスコが仏教を参考にしたかは不明ですが)。

このエイリアンの母親であるクイーンと、一人娘の母親であるリプリーとの対決というのは、異種でありながらも母親同士の子供を巡る戦いでもあるわけです。

僕はこの『エイリアン2』を観ているとリプリーがニュートを助ける為に、脱出警報が鳴り響くなか、大型エレベーターに乗り母親としての戦いに向かうシーンで毎回涙してしまいます。

もしこの記事を見て『ブラック・クラブ』という映画が、より楽しめたと思っていただいた方がいれば、次は是非とも『エイリアン2』も見直してみるもの宜しいのではないでしょうか?

というところで、毎回長くなりがちなので今日はこの辺で終わりにしようかと思います。

皆様の映画ライフに少しでも面白みを加味できれば、これ幸いです。

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