看取り人 エピソード3 看取り落語(10)
「娘は、高校を卒業すると同時に男の一門に入りました。所謂、弟子入りでございますにゃ。娘としては中学校卒業して直ぐにでも入りたかったのでございますが両親に反対されましたにゃ。父親は自分が味わうことのできなかった学生生活を、母親は娘の将来的なことを心配しての願いでしたにゃ。出遅れてしまうことを心配した娘ではございますが、そこは鬼才天才の子であり、幼少期より誰よりも間近でプロの世界に触れてきただけはあり、同時期に入った弟子たちよりも肉球五歩分は先に行っておりましたにゃ」
それって四本脚だったらあんま差が付いてないんじゃないか、と師匠は胸中で呟くもこれから話されるであろう出来事を思い、胸が痛くなった。
「男も娘の成長と才能を喜ばしく思っておりましたにゃ。先輩たちのところに行けば自慢をし、後輩や弟子にも遠回しに娘のことを嬉しげに話す。子どもの成長と成功は親の喜び。しかし、それを第三者まで面白く、肯定的に受け取るわけではございませんにゃ」
師匠は、枯れ木のような手で病衣の胸元を握る。
重い。
息苦しい。
頭の奥がライターで炙られてるようだ。
来る。
あの話しが。
「娘が良くも悪くも独り立ちをした辺りからずっと眠っていた奇人変人の血が男の中で騒ぎ出しますにゃ」
茶々丸は、翡翠の目をきつく細める。
「酒を飲んだら午前様、弟子と一緒に馬を買い、舟を買い、弟子の英気を養う為と称して如何わしい店に行っては欲望の限り遊び出す。妻は当然、良い顔はしなかったが、元々、男がそういう人だって言うのは知ってたし、真打の妻となった以上、ある程度の事は覚悟しておりましたにゃ。それに夫である男が妻と娘を裏切るはずがない。そう思っておりましたにゃ。しかし、男は見事に裏切ってしまう」
茶々丸は、ふうと息を吐くようにふんっと鼻を鳴らす。
「男は、不倫をしました。しかもそれはお店の女ではなく、娘よりも若い年端もいかない女と」
「その若い女は娘と同時期に入った弟子でございましたにゃ」
茶々丸は、左前足を舐める。
「その女を例えて言うなら胡蝶蘭。静かで清楚な外見でありながら艶かしく悩ましい。とても娘より年下とは思えない色香が漂い、見れば心奪われ、嗅げば欲を刺激し、触れれば熱が注ぎ立つ、そんな女でございましたにゃ」
その表現は間違っている。
あの小娘は胡蝶蘭なんて生優しいものではない。
あれは蘭に擬態した食虫植物だ。
甘い香りで男を惑わし、利用し、狂わし、破滅させる。
そして自分は見事に食われてしまった。
「男は、見事に女に心奪われ、男の欲情をぶつけてしまいましたにゃ」
欲情をぶつけたのは間違いない。
しかし、誘ってきたのはあの女だった。
女は、娘に嫉妬していた。
自分にはない落語の才能と人に好かれる愛嬌、美しくも色気もないのに真打の娘というだけでチヤホヤされる環境、そのどれもが気に入らなかった。
決して娘に劣るところがある訳ではないのに全てを妬み、全てを恨んだ。
だから、手に入れようとしたのだ。
自分がのし上がる為の最高の武器を。
奪おうとしたのだ。
最も憎む者の大切なものを。
そしてその目論見は成功した。
「男が弟子に、しかも未成年の女に手を出したということは直ぐに業界全体に広がり、激震を与えましたにゃ」
バレるはずがない。
そう思っていた。
バレても今まで通り"本当に師匠は……"と呆れられるくらいで済む。そのくらいの認識だった。
本当に自分は奇人変人だ。
自分の非常識は世間一般に通ずるもの。
勝手にそう思い込んでいた。
火のないところには煙は立たない。
壁に耳あり障子に目あり。
師匠が未成年の女、しかも直弟子に手を出したことを耳にした大師匠を始めとした業界の重鎮たちは直ぐ様、師匠を呼び出した。
その結果として。
「男は、落語界の名誉を著しく汚し、芸能に泥を塗ったとして真打を剥奪。一門からの破門を言い渡されましたにゃ」
それだけではない。
師匠が真打を剥奪されたことにより直弟子達は同じ一門の真打の元に引き取られる、もしくは別の道を歩むことを余儀なくなされた。
師匠と不倫関係になった女はいつの間にか消えた。
恐らくこんな大事になるだなんて思っても見なかったのだろう。行方を眩まし、今もどこにいるか分からない。
そして娘は……未成年に手を出し、落語会の名を汚した男の娘とレッテルの貼られた娘は……どこの一門にも引き取られることなく、落語家になる夢を絶たれてしまった。
永遠に。
「娘は男を罵りましたにゃ。人間のクズ、お前なんか父親じゃない、裏切り者、お前のせいで私の人生台無しだ、と。雨に濡れて泥だらけになった猫でさえこんなに蔑まれることはございませんというくらい男は堕とされましたにゃ。しかし、男には言い返すことも言い返す資格もございませんにゃ。娘の夢を、将来を絶ってしまった。その後悔と罪悪感、そして娘への罪の意識が男の心を切り刻みましたにゃ。そして娘は……狭い部屋に身体を、硬い殻に心を引き籠らせ、男と二度と話すことも顔を合わせることもなくなりましたにゃ。それでも……妻は夫を見捨てませんでしたにゃ」
妻は、自分に言った。
"大丈夫よ。人の噂も七十五日。きっと時間が解決してくれる。あの子もきっと立ち直って貴方を許してくれるわ"
しかし、その言葉は決して師匠を救わなかった。
娘の人生を台無しにした、命を燃やしに燃やし尽くして取り組んでいた落語が出来なくなった。
男は、酒を朝から晩まで煽り続け、全ての問題から、この世から逃げた。
全て自分が悪いのに、不倫を持ちかけてきた女を罵り、自分を守ってくれなかったと大恩人でもある大師匠を蔑み、被害者とも呼べる妻に当たり散らした。
しかし、妻は何も言わず、夫の理不尽な怒りを笑顔で受け止め、優しい言葉で師匠を慰め続けた。
今思わなくても自分は甘えていた。
落ちぶれた自分に唯一、優しくしてくれる妻に依存していた。
馬鹿だ。
どうしようもない馬鹿だ。
仮にも真打となり、人情に乗せて話すことを商売にしていたというのに、自分は妻の心境に気付かず、問題から逃げることで起きるであろうさらなる不幸を予期することが出来なかった。
真打をクビになり、娘と顔を合わせなくなってから数年経ったある日。
妻の悲鳴が家の中に響き渡った。
師匠は酒に沈んだ頭を起こし、妻のもとに向かった。
妻は、娘の部屋の前にいた。
娘の部屋の前で尻を付き、身体を震わせていた。
開かずの間のように固く閉じられた扉が開いている。
廊下には妻が運んだであろう娘のご飯が散らばっていた。
妻は、開かれた部屋の中を見ていた。
その顔は死神を見たかのように、いや、死神など生温い、絶望そのものを見たかのように青ざめ、震え上がっていた。
男は、部屋の中を覗き込む。
娘がいた。
数年ぶりに見る娘。
娘の身体はぼやけるように宙に浮かび上がっていた。
肉の削げ落ちた細い身体。その首には白いシーツのようなものが巻かれ、電灯に結び付けられ垂れ下がっていた。
男の脳から酒が霞のように消える。
現実が針のように肌を突き刺す。
「娘は……死んでいましたにゃ」
師匠は、その場に座り込む。
娘の長くザンバラに伸びた髪の間から目が見える。
力なく虚な目。
その目が師匠を映す。
師匠にはその目がこう告げているように聞こえた。
"お前を一生許さない"
「男は絶叫しましたにゃ。全ての罪の意識が男の閉じた心に雪崩のように襲い掛かりましたにゃ。それからのことはあまり覚えておりません。少なくなった貯蓄の中で娘の葬儀を慎ましく行い、妻と二人で送り出しましたにゃ。初七日を終え、四十九日を終え、一周忌を終えた頃、妻が姿を消しましたにゃ。男は……妻を探そうとはしませんでしたにゃ」
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