Marukimaru

「大人のお絵描きおすすめ人」です。人は誰でもアーティストです。自分のなかのアーティスト…

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「大人のお絵描きおすすめ人」です。人は誰でもアーティストです。自分のなかのアーティストを解放してあげましょう。それが絵や文筆・俳句であれば、僕からの発信が何かのお役に立つと思います。著書:絵を描き出したい大人のための絵画制作関連Kidle本を3冊出版・4冊目執筆中。

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抽象画を描きたい稀少派のため、いきなり楽しく描ける教則本を出版しました。

描きたい人が極めて少ない抽象画の Kindle本を堂々出版しました。 題して【いきなり抽象画が楽しく描ける墨彩抽象画 入門編】 「絵を描き出してみたい大人」や すでに絵を描いていて 「いろいろやってみたい大人」のための本です。 「絵を描きたい大人」は「少数派」です。 しかも、この本のテーマは「抽象画」です。 抽象画を描きたいと思う方は更に少ないですから 「稀少派」と呼べます。 何故、売れなそうもない本を出版したかというと 実は「抽象画」は, 描いていて

    • 季語「凍てる」を詠んだ句より一句

      凍てにけり障子の桟の一つづゝ   久保田万太郎 「凍てる」は水が凍ることだが、 俳句の季語としての「凍つ・沍つ」は 寒さに関するもっと広範な意味がある。 一般的な寒さよりもっと強い寒気の感覚をいい、  それを五感で感じるすべての事象に反映する。 月や星も凍てるし、鐘の音も凍てるのである。  この句は「凍てにけり」と上五で「けり」の切字が使われている。 いきなり上五に「けり」が使われて言葉が切られているため、 次に出てくる言葉への期待感が高まる構造になっている。 したがっ

      • 季語「枯野」を詠んだ句より一句

        美しき女に逢ひし枯野哉      寺田寅彦   枯野と言えば、野原に生えている草がすっかり枯れはてて一面、枯れ草色に染まった状態です。命の気配のない淋しいを光景。 しかし、この枯野も春になれば、新たな芽吹きにより若々しい緑に覆われるのです。  そんな季語としての本意を持つ「枯野」の句の中から、「美しき女に逢ひし枯野哉」が目に入りました。目に入っても、目に留まるかは別です。 がしかし、寺田寅彦の名前と対になっていると目に留まらずにはいられないですね。  とりわけ寺田寅彦に思い

        • 季語「雪催い」を詠んだ句より一句

          湯帰りや燈ともしころの雪もよひ  永井荷風  作者の永井荷風については、かって浅草にあったストリップ劇場「フランス座」の楽屋で踊り子に囲まれている写真が思い浮かぶ。フランス座は今では東洋館と改名し演芸ホールとなっていて、そのロビーに飾られていた記憶がある。戦後の一時期、荷風作の劇が上映され、本人も舞台に上がるなど話題になったのでした。  荷風の人となりは風変りな人物として知られていますが、大実業家であった父の力でアメリカに事業修行に行かされて、フランス滞在の経験もあり、そ

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        抽象画を描きたい稀少派のため、いきなり楽しく描ける教則本を出版しました。

          季語「コート」を詠んだ句より一句

          コート着て燈のなき家に帰りけり    角川春樹  バーの止まり木から降り立って、 壁に掛けられたコートを手にする。 それまで気の置けない相手と談笑しながら、 ハイボールを飲んでいた。  コートを着て一歩外に踏み出せば独りである。 そして、その先に待つのは燈の気のない我が家である。 コート一枚で舞台が暗転するかのような効果を挙げている。  そして、このコートを着た人物像さえ浮かぶではないか。 ここに書いた情景は僕の想像だが、 人によってさまざまな情景が思い浮かぶであろう。

          季語「コート」を詠んだ句より一句

          季語「雪」を詠んだ句より一句

          雪檪夜の奈落に妻子ねて   森澄雄  檪(くぬぎ)の林に雪が降っている。 降る雪にもの音がすべてが消されいるような夜は、 あまりにも静かだ。 そんな雪の夜、 妻子が枕を並べて眠っているのを作者は見ている。  奈落は、仏教用語では地獄のこととなる。 また、ここから転じ 舞台の下や歌舞伎の花道の 床下の空間のことも意味する。  この句では、地獄というより舞台の床下のような闇に 包まれた空間と解せる。  しかし、何故そのような夜の奈落に妻子眠っていると、 作者は感じているのだろ

          季語「雪」を詠んだ句より一句

          季語「初春」を詠んだ句から一句

          初春や家に譲りの太刀はかん   向井去来  去来の生きた時代、 太刀が象徴や装飾品になっていることが よく伝わってくる句だ。 江戸時代も中期になると、 もうすでに百五十年やそこいら 戦というものがない時代が続いている。  次第に刀も実戦的なものから 身分や権威の象徴と変わっていく。  持たなければならない決まりならできるだけ軽くと、 刀の作りも細身で反りの入ったものになってきた。  また象徴的な持ちものとして拵えも装飾性を強めてきた。 これが幕末になると、殺伐とした世を反

          季語「初春」を詠んだ句から一句

          季語「俎(まないた)始」の句より一句

          俎始ひと杓の水走らせて   鈴木真砂女  この句の作者の鈴木真砂女は、 銀座の路地で、間口一間ほどの小料理屋の女将だった。 彼女の代表作のひとつ「あるときは舟より高き卯波かな」による 「卯波」が店名。  路地の角にお稲荷さんの祠があって、 有楽町駅から行くとその角を曲がって三件目の店だった。 僕が「卯波」に行き出したのは彼女の最晩年であるが、 着物姿に割烹着を着て上がり框に座って 何くれと客に気配りをしていた。  彼女は老舗旅館の女将だったが、熱愛の七歳年下の男がいて、

          季語「俎(まないた)始」の句より一句

          季語「牡蠣」を詠んだ句より一句

          牡蠣割つて脛に傷もつ女かな  鈴木真砂女    有楽町駅から八重洲通りに出て、銀座通りの地下鉄銀座一丁目駅の間には 昭和の匂いを感じるような一角がある。 そんな通りの一筋、柳通りに稲荷の祠があった。 その祠を曲がると小さな飲食店が並んだ路地になる。 路地の数軒目にあったのが、俳人鈴木真砂女を女将とする 小料理屋「卯波」である。  引き戸を開けると左手にカウンター、 奥に色紙の飾られた小ぶりな座敷が見える。 和服の上に割烹着を着た女将さんが迎えてくれた。 ここが、僕の句会な

          季語「牡蠣」を詠んだ句より一句

          季語「月」を詠んだ句より一句

          突とめた鯨や眠る峯の月  与謝蕪村  日本の捕鯨は、鯨を余すとところなく生かした。欧米人が鯨油やコルセットのために捕鯨をし、鯨の多くの部分を廃棄したのとまったく異なる。  細かに区分された鯨は食用の他、さまざまな用途に使われてきた。  その鯨を食ってはいけないという主張を繰り返し、日本の捕鯨をやめさせようとしているのは、簡単に言うと日本に牛肉を売りたい国。  鯨は図体は大きいが可愛い生き物で、牛はどんどん食べるための生き物という洗脳で、日本の食料自給率はますます下がっていく

          季語「月」を詠んだ句より一句

          芭蕉さんが詠んだ「変な句」に心はペンギン状態

          白菊よ白菊よ恥長髪よ長髪よ    松尾芭蕉  よくペンギンは好奇心の強い生き物で、変わったものを見つけると、自らの危険を顧みず対象に近づいていってしまうと言われている。  そんなペンギンたちの立ち振る舞いに共感する私の前に、不思議な句が出現した。それが松尾芭蕉の「白菊よ白菊恥長髪よ長髪よ」という句。目にしたことのない芭蕉さんの句である上、読み方も定かではない。  触れない方がいいのかもしれないなどと日和見になりながらも、いったいどういう意味だとか、そもそも芭蕉さんはどういう

          芭蕉さんが詠んだ「変な句」に心はペンギン状態

          趣向で勝負みたいなところもある江戸時代の俳句も面白いではないか。

          月の雨穴の鼠に見舞るる 鈴木道彦  名月の日に、雨になって落胆しているだろう人間(自分)を、鼠が穴から出てきて見舞ってくれたという句意。  この句に事実があるとしたら、雨月であったことと鼠がいたことぐらいで、それも創作かもしれない。つまり、こんな句をつくったら面白いだろうという発想で詠まれた滑稽狙いの句である。  こうした句を今どきに詠めば、川柳ということにされてしまうならいい方で無視かな(笑)。しかし江戸時代には、このような句づくりで一派を成していた。  鈴木道彦というと

          趣向で勝負みたいなところもある江戸時代の俳句も面白いではないか。

          どうやら「半熟玉子」は西洋伝来調理法らしい

           長い間、物価の優等生と言われていた卵が、遂に値上がりしたとニュースになった。優等生の理由は、長い間他の物価が上昇しても同じような価格を維持してきたことにある。それが2023年には小売価格で倍になったといった話が伝わってくる。  とはいえ価格も平均的な卵というものと、特別な卵というものがあって、飼育環境や餌を工夫された卵はもともと高い。高いだけあって「この卵なんて旨いんだ」と感嘆するような卵もある。大きさ、黄身と白身の調和、割ったときの張り、味の濃さなど、卵好きの僕にはたまら

          どうやら「半熟玉子」は西洋伝来調理法らしい

          季語「柿」を詠んだ句より一句

          柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  正岡子規    近頃、柿の栽培法も変わってきているようだ。高さ二メートル程の柿の木に直径十センチはあろうかという実が五、六個は実っている。よく見ると植木鉢のようなものに植わっていて、辺りに地面は見えない。   柿といえば大きな木にたわわに実ったものだと思っていたのが、こんな栽培方法もあるのかと買い求めてみた。これがめっぽう旨い。あぁ、子規さんがいたら喜ぶだろうなと思った(笑)。  それで「柿食へば」の句である。子規が柿好きだったことは良く知ら

          季語「柿」を詠んだ句より一句

          季語「ピーマン」を詠んだ句より一句

          ピーマン切って中を明るくしてあげた  池田澄子    ピーマンを見たり、食べたりするたんびに頭をよぎる俳句がある。スーパーマーケットで見かけると「なかが暗いだろうに」とか、食卓に並ぶと「あぁ、明るくされちゃって」とか肯定的な場合も否定的な場合もある。要するにこちらの気分で、その句は意味づけされ、頭のなかで強制再生されるのだ。そんな句が掲載の句である。  作者は池田澄子さん、若々しく元気な1936年生まれの現役の俳人である。独特の視点で世界を捉えていて、多くの作品に感銘を受け

          季語「ピーマン」を詠んだ句より一句

          俳句は十七文字でしかないが独自性の塊だ。 俳句と句会の凄いところ

          俳句のちょっと軽めな感じの存在が好ましい  一般的に俳句は文学と言わず文芸と言われています。小説は文学作品などと言われることがありますが、俳句文学とは言われることはありません。  しかも、ちょっと軽めなイメージを込めて「文芸」と呼ばれることが多いのも事実。文芸の意味を問えば「言語で表現される芸術」とされていますから、本来の意味では軽めな言葉ではないはずです。  しかし「芸」の字が付くと芸術というより、お座敷芸、芸事といったイメージに重なるせいか、ご隠居さんの言葉を使った芸事

          俳句は十七文字でしかないが独自性の塊だ。 俳句と句会の凄いところ