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季語「枯野」を詠んだ句より一句

美しき女に逢ひし枯野哉      寺田寅彦


  枯野と言えば、野原に生えている草がすっかり枯れはてて一面、枯れ草色に染まった状態です。命の気配のない淋しいを光景。
しかし、この枯野も春になれば、新たな芽吹きにより若々しい緑に覆われるのです。
 そんな季語としての本意を持つ「枯野」の句の中から、「美しき女に逢ひし枯野哉」が目に入りました。目に入っても、目に留まるかは別です。
がしかし、寺田寅彦の名前と対になっていると目に留まらずにはいられないですね。
 とりわけ寺田寅彦に思いれがあるわけではありませんが、明治の物理学者で写真を見ても、この句を詠んだ当人とはとても思えない謹厳実直な人物に見えます(笑)。
 それが嬉しそうに「美しき女に逢ひし」と宣っています。「逢う」は巡り合うことであるから、枯野という万物枯れ果てた世界で、輝くように美しいあなたに会えました。枯野さえも明日への希望に満ちた場所に見えるではありませんか。どう見ても恋の句ですね。

 作者の寺田 寅彦(てらだ とらひこ)は、1878年(明治11年)11月28日 東京に生まれ、1935年(昭和10年)12月31日に亡くなりました。明治から昭和初頭に生きた物理学者、随筆家、俳人です。
 研究上の業績としては、固い分野のものだけでなく「金平糖の角の研究」や「ひび割れの研究」などと、身近な現象を物理学的に解明した研究もあります。文学や自然科学以外の事柄にも造詣が深く、文学と科学を調和させた随筆を多く残している人物です。

 夏目漱石と交流が深く、漱石門下とされていましたが、科学や西洋音楽など寅彦が得意とする分野では、漱石が教えを請うこともあったようです。
 また『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれています。
 こうした経歴から察することができるのは、物理学者ではあっても、存外、洒落のわかった人物像。
明治の男たちは無骨に見えながら心は熱かったのですね。
 作品としての出来はともかく、一本取られた感じがします(笑)。

 寺田 寅彦は物理学者、随筆家、俳人。1878年明治11年)11月28日に東京都麹町に生まれた。  1935年昭和10年)12月31日)に死去。

 余談ですが、どなたも謹厳実直に写真に納まっていますが、明治の男は元勲と言われた伊藤博文はとても女好き、日本の資本主義の父・渋沢栄一もお盛ん、明治の植物学者・牧野富太郎も頑張っているという状態(笑)。
 男の甲斐性なるものが、そこに集まる時代だったのですね。寺田虎彦の話とは無関係です。知りませんから、念のため。

文:黒川俊郎丸亀丸


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