見出し画像

季語「コート」を詠んだ句より一句

コート着て燈のなき家に帰りけり    角川春樹


 バーの止まり木から降り立って、
壁に掛けられたコートを手にする。
それまで気の置けない相手と談笑しながら、
ハイボールを飲んでいた。

 コートを着て一歩外に踏み出せば独りである。
そして、その先に待つのは燈の気のない我が家である。
コート一枚で舞台が暗転するかのような効果を挙げている。
 そして、このコートを着た人物像さえ浮かぶではないか。
ここに書いた情景は僕の想像だが、
人によってさまざまな情景が思い浮かぶであろう。

 この句に感じるのは「燈のなき家」という言葉に
表されている寂寥感である。
「燈のなき家」は必ずしも
「誰も待っていない家」ではないし、
そして、それは作者の現実であるかも不明だ。
 作者にとってそれはどうでもいいことで、
表現したかったのは、
現代における人間の孤独だと思う。

 こう書くと「俳句は作者が見聞きしたことを表現するんでは」
と疑問に思う方もいるかもしれない。
 そう考えている俳人もいるとは思うが、
俳句は、「俳句という詩の器で表現する文芸」で
必ずしも作者の現実と一致する必要はないと
角川春樹氏も僕も考えている。

 作者の角川春樹氏は、
伝統的な俳句が持ってしまった
多く約束ごとに縛られないため、
俳句という言葉の意味の外側に
もう一つ大きな詩の器を用意した。
それを「一行詩」と呼んでいる。
 俳句を否定はしているわけではなく、
日ごろから「いい俳句はいい一行詩である」いっている。

 この句も「けり」ともっとも俳句らしい切れ字で言い切り、
コートをモチーフに現代の孤独を詠いながら何の違和感もない。 
そこに虚実を自在に扱う一筋縄ではいかない
俳人としての角川春樹氏がいる。

文:黒川俊郎丸亀丸


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?