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俳句は十七文字でしかないが独自性の塊だ。 俳句と句会の凄いところ

俳句のちょっと軽めな感じの存在が好ましい

 一般的に俳句は文学と言わず文芸と言われています。小説は文学作品などと言われることがありますが、俳句文学とは言われることはありません。
 しかも、ちょっと軽めなイメージを込めて「文芸」と呼ばれることが多いのも事実。文芸の意味を問えば「言語で表現される芸術」とされていますから、本来の意味では軽めな言葉ではないはずです。
 しかし「芸」の字が付くと芸術というより、お座敷芸、芸事といったイメージに重なるせいか、ご隠居さんの言葉を使った芸事のような方向にいってしまうようです(笑)。
 山本健吉は俳句の評論家として著名な方ですが、俳句の本質を「滑稽」「挨拶」「即興」としています。確かに一見どの本質も深い思索や高尚な精神とは関係ない印象ですね(笑)。
 しかし、この軽めに思われている俳句が、実はただものではないのです。そこが「恰好いい」と感じて、長年の付き合いになっています。俳句は僕にとってはライフワークのひとつ。そこで、少しでも俳句に関心持ってもらえる人が増えるといいなと考えてます。
 それでは格好いい俳句のを詩としての形とその学びの場である句会について、日ごろ思っていることを書いてみました。

俳句という詩形には、他に類を見ない独自性がある

 俳句は僕がつくったものでもないのですが、勝手に自慢すると、「俳句は俳句以外の何物でもない独自性」を持っています。
 すなわち「十七音という世界でもっとも短い詩形であること」「俳諧の発句と呼ばれた時代から、おおよそ五百年からの歴史があること」「日本の俳句人口は二百万人くらい(諸説ありますが)と推定でき、何かと引き合いに出される身近な詩であること」「俳句には季語という季節とその季語の持つ抽象性によって表現を豊かにする語彙群があること」などです。
 独自性といい、社会性といい、現代においても潜在的な関心層が広い点といい完璧な詩形です(笑)。十分、現代という時代を生き抜いていけるのが「俳句」なのです。

句会の作品本位の運営は類をみない

 句会には句会を取りまとめ進行する宗匠がいます。宗匠と句会の参加者との関係は一般的な意味での先生と生徒の関係ではありません。ですから古風な言い方のように感じるかもしれませんが宗匠とお呼びしています。先生と生徒の関係は教える人と教わる人という関係であるので、生徒の作品を評価するのは先生ですね。カルチャーセンターでの俳句講座の講師もテレビ番組の「ぷれバト」の夏井いつきさんも先生です。
 句会での宗匠は、まず句会に参加します。つまり投句といって作ってきた自分の俳句を提出します。ここまでせ、なるほど、先生と宗匠とに違いは俳句を提出するかしないかかと理解していただけたと思います。
 この先が重要なのですが、句会では最初に短冊といって細く切った紙片を提出する句数に合わせて配ります。その短冊に俳句を各人が書き、書き終えると裏向きにして提出します。提出された短冊は混ぜられ、もう一度、参加者に戻されます。そして、それを今度は罫線の引かれた用紙に移します。
 仮に宗匠を含めて10人の参加者の句会で各人が5句投句すると50句にまりますね。それを5句づつ引き写した紙が10枚揃うことになります。なんだか面倒なことをやっているようですが、この作業の目的はできるだけ誰が詠ん だ俳句であるかを分からなくするためのものです。
 何故そんな風にするかというと句会では「互選」といって、その句会に出された句を選び合うからです。選びあうときに誰さんの出した句だからとか宗匠の句だからといった選び方ができない工夫なのです。
 互選のために10枚に清書され直した用紙を順番に回していきます。例に挙げた句数だと各人がいいと判断した句を5句選び、そのうちもっとも感銘を受けた句を特選とするといった選句になります。ですから回ってきた用紙のなかから良いと感じた句を抜き書きして置き、そこから最終的に5句に絞り、特選句を決めるという流れになります。
 その後、選句をした用紙を提出して、もっとも点の入った句から選んだ人が選句理由や感想を述べていきます。当然、まったく選ばれない句も出ますし、宗匠の句でも点が入らないこともあります。
 つまり句会では選句するに当たって俳句だけに向き合うことが求められているのです。これだけ選句を大事にするのは、選句の能力と俳句を詠む能力に相関があるためとも言えます。ですから、まだ俳句を始めて間もないといった場合、自分の力以上の句の良さが分からないことが往々にしてありますね。でも、それはそれで良いとするのが句会です。
 宗匠は選句数に限定がなく、佳作、秀逸、特選といったように区別して自分の選句結果を発表し講評して句会の締めになります。宗匠は選には入れなかったけれども、いいところある句に付いても取り上げ初心者の育成にも努めます。しかし、この俳句特有の教える立場を超えた宗匠のあり方は、他に類をみないものです。
 俳人はそれぞれ信条としている俳句を詠む上での考え方があります。選句はあるべき姿と照らし合わされたものに他なりません。もし句会に参加してみたいと考えたときには、そこを理解して置くことが大切です。

句会という学びと交流の場の凄いところ

 さらに付け加えるなら「句会」という場を設けて、句を学ぶことと人としての交流が一体化され、そこで自分の句に対して得られた提言で良いと感じたものを「いただきます」の一言で自分の作品に取り入れられ、そのことで作品と作者の関係が損なわれることがありません。これは個人主義的傾向の強い国民性では成り立たない思考だと考えます。
 もし「句会は俳句を持ち寄っては発表する場」だけであったら、「私の提言でその句は改訂されたのだから私の句だ」ということになってしまします(笑)。与えることも与えられることも共に喜びとする者が、句会の仲間であることが大切です。
 

古臭そうな俳号の本当の姿

 もともと江戸時代という身分制度のある時代にも句会はあり、句会の場では身分を外すということもあって、号や名で同席の相手を呼びあったといいます。思い思いに付けた号には、氏のように身分を背負ってないと解釈したのですね。
 昨今、江戸時代の研究が進み、明治になって近代化という名のもとにある意味では隠蔽された本来の姿が明らかになってきています。俳句による広い範囲の人的交流や情報の交流からも、この時代の知られてなかった何かが見えてくるかもしれません。ともあれ今も生きる句会で、号名で呼び合う習慣の本来の意味を思い起こすと、「古臭くやってる」とは違ったものが見えませんか。
 しかも江戸時代の身分制度とは異なりますが、社会的な立場や世代の違う人たちの集まる句会もあります。そんなときには、古き時代の役割を取り戻しているように思います。(黒川俊郎丸亀丸)

※タイトル画像はMarukimaruの自作ですが「しちゃうおじさん」プロデュースの「みんフォトプロジェクト」経由で自由にお使いいただけます。背景色のバリエーションも揃っています。その他にもMarukimaru作品が「みんフォトプロジェクト」にギャラリー展示されいます。


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