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季語「牡蠣」を詠んだ句より一句

牡蠣割つて脛に傷もつ女かな  鈴木真砂女

 
 有楽町駅から八重洲通りに出て、銀座通りの地下鉄銀座一丁目駅の間には
昭和の匂いを感じるような一角がある。
そんな通りの一筋、柳通りに稲荷の祠があった。
その祠を曲がると小さな飲食店が並んだ路地になる。
路地の数軒目にあったのが、俳人鈴木真砂女を女将とする
小料理屋「卯波」である。

 引き戸を開けると左手にカウンター、
奥に色紙の飾られた小ぶりな座敷が見える。
和服の上に割烹着を着た女将さんが迎えてくれた。
ここが、僕の句会なるものに初めて参加した場所である。

 余談になるが最初の体験が、
後々のその事柄に関する考え方の基本になることがある。
まさに、この句会での出来事が
僕にとっての句会なるものの定義になった。
 句会は飲みながらに限る(笑)。

 句会に誘ってくれたのが当時、
「卯波」で開いていた句会の幹事を務めてくれていた友人だった。
 座敷には八人ほどの男がいて既に飲み始めていた。
後で素性が分かってきたが、そうそうたる面々だった。

一わたり自己紹介などしあって、小さな短冊型の紙片が配られた。
その紙片に各人が用意してきた句を書くことになった。
 書き終わると小さなお盆に投げ入れるように紙片を投ずる。
無造作なのは、すべての参加者の句が集まると、
そこで改めて紙片は混ぜられることになるからだ。
混ぜた短冊は、参加者に分けられ、清記用紙に清書する。
この一連の作業は、作者が特定できないように筆跡を変えるため。
 つまり、その句会の先生である宗匠も含めて、
その後行われる選句に私情が出ないようにしているのだ。
 酒を飲んでる、頃合いをみながら少しづつ料理も出てくる。
作業しながら冗談や俳句の話をしている、といった雰囲気と裏腹に
俳句の選評は、遊びだから本気といった状態。
 それぞれが自分が良いと思う句が選び、互選の結果が読み上げられる。
称賛の声が挙がったり、喜びの謝辞が出たりする。
 参加者の互選の結果が読み上げられた後、
宗匠の選と講評があり句会は終わる。

 うまい料理で酒を楽しんでいると同時に
表現者としての知性や感性の競い合いに刺激を受けた一夜だった。
 その後、何年にもわたり「卯波」には通うことになった。

 さて、挙句の「牡蠣割つて脛に傷もつ女かな」の作者で「卯波」の女将、
真砂女は二〇〇三年に九十六歳で亡くなっている。
 店にいるときは小柄の気配りの効いた女将であったが、
波乱といってもいい人生を送った方で、
この句もそうした境涯を踏まえての一句。

 鴨川にある老舗旅館の女将だったが、
七歳年下の男性と恋に落ち、家を出ることになってしまう。
もっと紆余屈折のある話だが五十歳の時、
ほとんど身一つで家を出た真砂女を俳句仲間が支え、
店を出したのが五十二歳。
以来、店のみならず平素から着物姿で通したと聞く。

 やがて句やその生き方が知られるようになり、
なんと八十七歳で松屋銀座のお歳暮のポスターにもなり評判を呼んだ。
それを契機にテレビにも出演したのを記憶している。
恋に俳句に思いを通した生涯ではあったが、
心には屈託があったと思う。
 この句もそうした思いの出た一句。

「牡蠣割って」の修辞は、厄介な牡蠣を剥く作業に事の顛末を託している。そして、その顛末ゆえに「脛に傷」を持ってしまったの句意。
「脛に傷」という伝法な表現が妙に効いた一句である。
ちなみに「脛に傷」とは後ろめたい気持ちを表す言葉で、
脛は衣類で隠れているが、
何かの折に見えてしまうというところから生まれた表現。
脛に傷持つと時に露見するのである。
その不安な感情もこの言葉にはある。

 真砂女のよく知られた句に
「羅(うすもの)やひと悲します恋をして」があるが、
恋の顛末は、まさにそういうことであっただろう。
真砂女七十歳の時に最愛の人が急逝する。
その後、真砂女は二十六年を生き、
晩年に詠んだ句に「今生の今が倖せ衣被」がある。
 
そして、「卯波」は再開発の波にすくわれ今はない。
店名の「卯波」は「ある時は船より高き卯波かな」による。
卯波は卯の花の咲くころに荒れた海に立つ波。
運命に翻弄されたような自身を詠った句が店名であった。

(黒川俊郎丸亀丸)


 

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