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趣向で勝負みたいなところもある江戸時代の俳句も面白いではないか。

月の雨穴の鼠に見舞るる 鈴木道彦


 名月の日に、雨になって落胆しているだろう人間(自分)を、鼠が穴から出てきて見舞ってくれたという句意。
 この句に事実があるとしたら、雨月であったことと鼠がいたことぐらいで、それも創作かもしれない。つまり、こんな句をつくったら面白いだろうという発想で詠まれた滑稽狙いの句である。
 こうした句を今どきに詠めば、川柳ということにされてしまうならいい方で無視かな(笑)。しかし江戸時代には、このような句づくりで一派を成していた。
 鈴木道彦というと、名前から推察すると最近の俳人のように見えるが、一七五七年(宝暦七年)に仙台に生まれ一八一九年(文政二年)に江戸で亡くなっている。江戸時代も後期に当たる時代の人である。医師と俳諧を両立させて文人として活躍、与謝蕪村などを酷評していたと記録に残っている。今では全く評価が逆転しているのだから面白い(笑)。

 しかし、近頃こういった唯々滑稽を狙ったり、ちょっとした才気を誇ったり.、自虐的な作風に惹かれるところがある(笑)。
 この句で言えば「月で一句詠んだ。自分でも名句だと思うがどうだね」などといって句を披露すると、「ほぉー、どれどれ。これはいい。満月と鼠の齧った丸い穴を掛けたね。うん、わかる」「鼠といえども風情が分かって、雨月見舞いに出てるところが趣向だ。こりゃ、たしかに名句の仲間入りだ」。
 などと、大人が一杯やりながら遊ぶ、これは近代以降の俳句にはない楽しみだった気がする。

 「滑稽」は現代でも俳句表現の要素に挙げられるが、もっと内向的な表現になり、笑いの奥に哀感があるのがよいとされている。
 現代は人間の心理状態も複雑なのだ。

 鈴木道彦は次のような句も詠んでいる。

宵々はきたない竹も蛍哉
宵宵は、多くの宵なので毎晩、ここでは日が暮れた後のいつ見ても風情があるとは思えない竹林も、蛍が飛んでいるといつもと違って風情があるといった句意。

炭くだく手の淋しさよかぼそさよ
これは暖をとるために炭を割る己の手を句にしたもので、手をもって境涯を詠んでいる。現代の俳人は「淋しさ」「かぼそさ」を同時に句に使用することはないと思う。しかし老いへの悲しみがよく出ている句だ。
                         (黒川俊郎丸亀丸)

※タイトル画像はMarukimaruの自作ですが「しちゃうおじさん」プロデュースの「みんフォトプロジェクト」経由で自由にお使いいただけます。背景色のバリエーションも揃っています。その他にもMarukimaru作品が「みんフォトプロジェクト」にギャラリー展示されいます。





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