伊中悦子

わたしは「私」について関心があります。言葉にできないけれど、在るはずの、見えないけれど…

伊中悦子

わたしは「私」について関心があります。言葉にできないけれど、在るはずの、見えないけれど、内側から見えるはずの、証明できないけれど、無ではないはずの、そういうもの。小林秀雄の作品を読みながら、考えます。

最近の記事

『邂逅の森』熊谷達也 を読んで

 マタギとは東北地方の集団で狩猟を行う者ということしか知らず、マタギという音に何やら原始日本語の響きを感じていた。秋田の山に暮らすマタギがその始祖であるとは知らなかった。小説『邂逅の森』は山に生きるマタギ文化、共存する人と森の営みが描かれている。  これを読んで、最近のクマが住宅近くに出没するニュースに、地名が気になるようになった。  主人公松橋富治は秋田県秋田郡荒瀬村打当(ウットウ)の生まれ。大正3年冬、14歳で初マタギとなった。月山麓肘折温泉マタギ小屋から獣を殺める旅を

    • 山本淳子『紫式部ひとり語り』を読んで

       現実の人生を受け入れ、もののあはれを知る この書は、作者の紫式部「私」が語るという文体で書かれている。山本氏自身が「ひとり語り」は冒険というのも頷ける。山本氏が研究者として『紫式部日記』『紫式部集』『源氏物語』などを読み込み、式部の出自や時代背景など研究的な視点で資料補強がされており、史書『大鏡』や日記『小右記』『御堂関白記』、『古今和歌集』『千載和歌集』を駆使し、系図も示し出自を自慢げに語らせるなどの方法である。紫式部が自分を語るという設定で書きながら、「自分語り」設定そ

      • 吉田修一『悪人』を読んで

        殺人者は告白する、峠と灯台  悪人とか善人とかの観念語は、宗教的道徳的な裏付けがないと意味をなさないように思う。殺人の行為者本人は悪人なのか、そうした問いに納得できる答えがあるとは思えない。タイトル『悪人』には事実としての殺人行為を通して、人間の悪と善への深い問いが仕掛けられている。答えのない問いのままに。  小説『悪人』は福岡市と佐賀市を結ぶ国道263号線の三瀬峠の描写から始まる。「2002年1月6日、長崎市郊外に住む土木作業員の清水祐一(27歳)が、福岡市内に暮らす保険

        • 乗代雄介『それは誠』を読んで

          ほんとうの修学旅行の思い出 この作品のタイトルは学校に提出する「高校二年の東京修学旅行の思い出」だったはずだ。修学旅行から帰った翌日、学校を休んで書き始め作品は、書き終わるまで学校行かない決意で「あの修学旅行で取り込まれた水分が体から抜けないうちに、あの日のことが一生分からないままにならないよう」に書くという。  「水分」と表象される高校生の友情、または意外な体験と初恋、大人になるためのイニシエーション、修学旅行にはこの枠組みがある。けれど、小説とは枠の外を豊かに想像させる力

        『邂逅の森』熊谷達也 を読んで

          桜木紫乃『緋の河』を読んで

          セクシュアリティについて  「女になりたいのではなくて、わたしはわたしになりたいのだ」という、そのブレのなさ。性の轍を踏み越える勇気と強い意志はどこから出てくるのか。三島由紀夫の作中人物は、肉体と精神の不一致に悩みながら生きていた。社会に性の意識の改変を迫る苦しい作品世界だった。『緋の河』の主人公秀男に、内的精神の葛藤はない。男女(おとこおんな)の「なりかけ」はカーニバル真木となって「本物」になって行く。まざまざと性の現実がたち現れる外部の「普通」と戦っていく。  ひとりで

          桜木紫乃『緋の河』を読んで

          藤野千夜『じい散歩』を読んで   

          94歳の父に悩む、50代の息子から人生相談AI「悩みのポスト」さんへ  『じい散歩』主人公の父新平は94歳、母英子は91歳、私は兄弟三人の真ん中で、健二です。弟の雄三は「ケンネエ」と呼んでくれてる。わたし、長女のつもりです。相談したいのは、父のことです。 3年前から認知が進んだ母は、父の昔の浮気を思い出し、夜中に泣き出したりして、責めてました。原因は父の日課の散歩なんですが、母は女に会いに行っていると疑ってて。  父は歩くこと、歴史的建造物を観る事、レトロな喫茶店による

          藤野千夜『じい散歩』を読んで   

          李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』を読む

          肉体の捕囚・存在の哀しみから美しい夜明けを迎える  この一冊は7つの話からなる。7話は「日暮れ」からはじまり、ポラリス(北極星)の光が降り注ぐ夜を経て「夜明け」で終わる構成で、セクシャルマイノリティの女性たちを描いている。1頁目から戸惑って、まず語の意味から調べて読み進めた。「ネコよりフェムリバ」は、見た目は女性的レズビアンで男役も女役も出来るが性行為はどちらかというと受け身という。レズビアンのカテゴライズは奥が深く、虹のグラデーションは13人いれば13通りあるので、確かめ

          李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』を読む

          島本理生『ファーストラブ』を読んで

          レリジエンス・しなやかな回復力の物語  臨床心理士真壁由紀は、女子アナ志望の大学生聖山還菜が父親の画家聖山那雄人を勤務先の美術学校の女子トイレに呼び出して持っていた包丁で刺殺した事件が話題になる中、出版社からの依頼でこの美人過ぎる殺人者の半生を執筆する事になった。刑務所の面接室で被告の還菜は「どうして私は親を殺すような人間に育ってしまったのだろう、私を治して」と由紀に切実に訴える。物語は還菜の殺人までの記憶と成育歴を探りながら、家庭の問題と性愛の問題に分け入っていく。それと

          島本理生『ファーストラブ』を読んで

          長嶋 有『猛スピードで母は』を読んで

          麦チョコのようにやさしい文体で、 はじけたポン菓子のような現実をコーティング  小説『サイドカーに犬』は、小学4年の夏に母が家出したときの話。父の愛人が来て、エサのように与えられたのが「麦チョコ」。  麦チョコは密閉した麦を加熱して圧力を高め、急に蓋を開くことで麦を膨張させ、それにチョコレートをコーティングして作られる。いつまでも甘さが残ることなく、続けて食べても食べ飽きない。私も近くのコンビニで買ってみた。懐かしい。  この味は、この小説の文章の味わいに似ている。子どもの

          長嶋 有『猛スピードで母は』を読んで

          『どうにもとまらない歌謡曲——七〇年代のジェンダー』舌津智之 を読んで    「やさしい男たちと激しい女たち」

           1970年11月、三島由紀夫は45歳で割腹自殺し、強い男の文学が終わり、反安保・学生運動は終焉し、奇妙な静けさに、やさしい男の歌があらわれた。この『どうにもとまらない歌謡曲』の分析する通り、時代と社会を「映し」かつ「移す」歌謡曲(12頁)は、闘争につかれた男たちが自己中心主義の社会生活者として、冷たく臆病な「やさしさ」で生きる姿を映した(『神田川』かぐや姫)。女たちは激しく強く連帯することを求めたが、自らのセクシュアリティをフェミニズムの中に主体的に押し出せなかった。  「

          『どうにもとまらない歌謡曲——七〇年代のジェンダー』舌津智之 を読んで    「やさしい男たちと激しい女たち」

          多摩川のほとりを歩いて、アオサギの佇むすがたを見た。川の哲学者だ。岸辺には蕎麦の花が白く匂うが如く咲いている。10/13

          多摩川のほとりを歩いて、アオサギの佇むすがたを見た。川の哲学者だ。岸辺には蕎麦の花が白く匂うが如く咲いている。10/13

          朝の多摩川は爽やかな風、澄み切った青空、気持ちいい! 川面に鮎が次々に銀鱗を光らせてジャンプ!!

          朝の多摩川は爽やかな風、澄み切った青空、気持ちいい! 川面に鮎が次々に銀鱗を光らせてジャンプ!!

          江間修『羊の怒る時 関東大震災の三日間』を読んで ちくま文庫(2023.8.10)

           1923年9月1日、作家、江間修は東京代々木の自宅で被災した。知人を訪ねて大震災で混乱した街を歩き、友人の朝鮮人学生が崩壊した家の中から赤ん坊とその母親を救い出す場面に出会う。「こういう善いことをしてお置きになれば、その酬いであなた方の助けられる時だってありますわ」と近くの奥さんは言う。李君は「こんな時は朝鮮人も日本人も、自分の子も他人の子も区別ありません」と、命の尊さに微笑む。  しかし、その翌日から朝鮮人が井戸に毒を入れた、集団で暴動、放火、略奪と流言飛語が飛び交う。朝

          江間修『羊の怒る時 関東大震災の三日間』を読んで ちくま文庫(2023.8.10)

          10月11日(水) すっかり秋、空が高い。ハケで描いたような薄い筋雲が遠くの山なみにかかっている。

          10月11日(水) すっかり秋、空が高い。ハケで描いたような薄い筋雲が遠くの山なみにかかっている。

          小林秀雄作品「秋」の考察補足2

          一. 言語ゲームについて ①時間の究極の表現は「空想」「告白」にある  この告白と呼ばれているのはプルウスト「失われし時を求めて」のこと。告白を止められるのは死だけだ、自分が無くなる事でしか止められない。心中に秘めて外に表せない喜び、悲しみ、大事であればあるだけ、それだけに自分にとって不可解であり続けるもの。自分の外に出たがらない意識。これは一種の夢ではないか、と思いながら、夢であってくれたらどんなに良いかと思う、その苦しさ、その味わい。自分だけがわかっているという事はそ

          小林秀雄作品「秋」の考察補足2

          小林秀雄作品「秋」の考察補足1

          1.「牛」は見えているか ①牛は仏性を示す 十二支のうち、牛はもっとも仏教とかかわりが深い動物だ。いまでもインドでは大切にされている。お釈迦様の時代は、実際はどうか知らぬが、牛は神聖な動物であり、貴重な存在というところから物の価値もその頭数で数えられていたという。仏さまは、しばしば牛にたとえられ「牛王」とも呼ばれた。ちなみに、お釈迦様の本名(幼名)はパーリ語で「ゴータマ・シッダッタ」。ゴータマは「最上の(tama)」「牛(go)」を意味する。 「日本人は千年も前から牛を

          小林秀雄作品「秋」の考察補足1