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小林秀雄作品「秋」の考察補足2

一. 言語ゲームについて

①時間の究極の表現は「空想」「告白」にある

上手に失った過去とは、上手に得る未来の事らしい。作者にしてみれば、或る奇妙な告白、死だけが止める事の出来る告白で、余命を消費しようという決心をした・・・豊かな内的な機能があって、決して外には現れない喜びや悲しみを、限りなく生産していたに違いない。そしてその事は、汲みつくし得ない意識を不断に汲む事を強制されている意識を伴っていたに相違ない。決して外に出たがらぬ意識とは、覚めていて見る一種の夢、・・・彼自身の全未来の姿の如きものとなって現前・・・自殺して了えばよいのである。小説家的才能・・・が、それを阻んだ。・・・「告白」が。
 無論、みんな私の勝手な空想である。・・・空想の自動的運動は、その抽象性による。・・認識の先天的形式とは、カントの窮余の一策だったに違いない。彼には、形而上学の不可能というやり切れない予感があった筈である、と。(引用「秋」・・・部分は中略)

 この告白と呼ばれているのはプルウスト「失われし時を求めて」のこと。告白を止められるのは死だけだ、自分が無くなる事でしか止められない。心中に秘めて外に表せない喜び、悲しみ、大事であればあるだけ、それだけに自分にとって不可解であり続けるもの。自分の外に出たがらない意識。これは一種の夢ではないか、と思いながら、夢であってくれたらどんなに良いかと思う、その苦しさ、その味わい。自分だけがわかっているという事はそれが自分の存在証明になることなのだろうと思うものの、自分相手の告白は、ウソだウソだと厳しい点検が入る。不確かな告白を自分相手では許せないし、検証しようがない。その辛さ。しかも自分は止められない。死ぬしかない。自殺するしか自分を止める手立てがない。内側に嚙みついて引きちぎる自分の構造がここに描かれている。

プルウストは、「失われた時」を求めて辛い自分を告白する小説を書くことによって想像の側、つまり未来を引き寄せ、生き延びることが出来た。生き延びて、自分への問いを問うという意識に追い立てられ、強制されることをも書くことが出来た。それができないのが小林秀雄だ。上手に未来を得ているプルウスト。小林秀雄は上手に過去を失うことが出来ない。

「私の夢」「私の空想」は私だけのものではない。そういう私は、あなたであり、彼であり、その他大勢の人という人が感じられるものとしてあるのだ。なぜなら、言語化できているのだから。
「空想」は勝手に広がっていく。小林秀雄にとりついた「空想の自動的運動」とは言葉の連想ゲームのように、意味不明の言葉のやり取りというに同じ事ではないか。

②ウィットゲンシュタイン

「言語ゲーム」と言ったのは、ルードヴィヒ・ウィットゲンシュタイン(1889~1951)。ウィーンで生まれケンブリッジで死去した言語哲学者で、小林秀雄の「秋」執筆の頃にはまだ存命だった。代表的著作の「論理哲学論考」(1921年刊)は小林秀雄も目にしていたはず。しかし、死後の「哲学探究」(1953年刊)はおそらく読んでいない。ウィットゲンシュタインの哲学は前期と後期で大きく変化するので、前期の言語論だけでは言語ゲームは分からない。したがって、小林秀雄が「言語ゲーム」という概念と「空想の自動運動」を結び付けたのではなく、あくまでも、それを結び付けたくなるのは、次世代の読者、わたしだ。
「空想の自動運動」はその「象徴性」によって、「認識の先天的形式」と呼ぶしかなく、カントはそれによって形而上学の不可能を予感したと小林秀雄は言うのである。このカントの予感も論理化されていないので、いわば抽象的になされた告白と受取っていたと考えるのだが、まずは、「言語ゲーム」から解いてみよう。

ウィットゲンシュタインは『論理哲学論考』で「言語は世界の写真だ」と言い、世界は言語で写し取られたものであり、わたしたちが認識している世界は、言葉がなかったら認識できないと考えた。ところがニィーチェのいう「神は死んだ」という言語はなにを写しとっているのか。『論理哲学論考』の末尾には「語り得ぬものについて、人は沈黙しなければならない」と書いてある。ウィットゲンシュタインは科学的、唯物論的な発想で、神の存在やその死など認識できないことは論じる興味を持たなかったという。しかし、現実問題として、人は日常言語の中で暮らしている。世界とは何かなど考えない。だからそういう言葉は使用しない。「いいお天気ね」などと、人が人と交わし合うことばが大切なのであって、科学的言語を分析しても世界と言語の本質は解らないと考え始めた。
いいお天気→傘はいらない→水不足で野菜が採れない→高くなるわね、などと言語は使用することによってはじめて意味が確定する、文脈が大事だと考えた。天気ー傘ー水不足ー畑の野菜ー高騰ー。人間はゲームと同じように、言葉の連想から連想へと、それぞれの文化、環境、職業、いわゆる生活全般の特有のルールによって言語を使う。その言語が持っている具体的で多様な姿を「言語ゲーム」と呼んだ。小学校の教師が子どもたちの遊ぶのを見て発送したような場面だ。
一つの文節や単語の持つ意味は、それが書かれた文脈の中で相違してくる。正義や理性や、まして神などは、それぞれの民族や文化の中で、どのように語られていたかを調査せずには理解できない。文脈の中での言葉の働きこそ「言語ゲーム」だという。
哲学の課題は、神とは、歴史とは、などと抽象的に考える事ではなく、神とか民族とかいう言葉を、それぞれの民族、文化の中で、どういう意味で使っていたかを分析することだろう。ウィットゲンシュタインの言語を分析することが哲学の本質的役割という発想は、認識論を超え、意識の中身など探りようもないとして、世界の客観的存在などはない、あるのは言語だけだという発想だった。(参考;出口治明『哲学と宗教全史』ダイヤモンド社)

言語に先立って個人の内的な感覚や客観的事実があらかじめ存在していて、言語はそれを写す道具とするのは古典的哲学観。この伝統を解体するのが、言語の使用によって意味のが成立するという言語観だ。言語は客観的事実を描写する道具であっても、それは事実を知らせる働きであり、自分と他者に対する活動として使用されている。だから、言語による表現は、人々に共有されたルールに基づいてなされる。個人的感覚であっても、ルールに基づいてはじめて伝わり理解される。そのルールはたまたまそこに成立しているだけであったり、慣習的なものであったりして、絶対なものである必要はない。その時、その場限りであっても言葉によって伝え合うという合意があれば成立する。言葉が叫びや呻きや、息遣いであっても、そうである。絶対のルールなどないとされる。例えば真偽の判断の際にも何らかの慣習的ルールに基づいて行われるほかなく、絶対的な判断基準などは存在しない、といわれる。(『哲学研究』1953年)

こうして言語ゲームの考え方は、相対主義的なニュアンスを強く帯びることになった。現在では言語ゲームは、社会学上の用語としても広く用いられている。学校や家庭やもろもろの宗教なども、それぞれ異なったルールを持つ言語ゲームとみなせば、それぞれの特質を分析できるとされている。

言語ゲームのルールはある文化の中でたまたま共有されているに過ぎない。
絶対のルールなどなく、ただ遊んでゲームをしていただけだった。ルールなしでも遊びは続く、ゲームは楽しい。人間は言語を使って「意味を伝達する」と思っていたけれど、ほんとうはただ言語を使って「遊んでいた」だけだった。ルールはゲームでその都度でっち上げられている、それで物事は進む。
言語活動はみんなが発信した言語の働きを受け止め、それをまたみんなに伝えていくゲームなのだという。言語の意味は決まっているわけではなく、ゲームの中で発信者と受信者の間で変化し、広がり、または切実なせばまりも含みながら伝わっていく、まるで、言語が生き物のように遊ばれる。
このような言語の意味ではなく働きに人が動かされるのは、何か秩序めいたものではあるが、旧来の形而上学には当てはまらない。言語学、といっても、特定の言語法則で概念化する事も出来ない。
意識の哲学から言葉の哲学へと、この従来の世界観、考え方の転換が、カントが形而上学の不可能を予感したと書いた部分の小林秀雄の空想=考えたことではなかったか。


二.作品「秋」の言葉から

プルースト 上手に失った過去=上手に得る未来=覚めていて見る一種の夢
告白
➡彼自身の全未来の姿のごときもの
私の空想  空想が私に相談なく勝手に動く=空想の自動運動、その抽象性
認識の先天的形式=すでに自分にそなわっている=逃れられない
➡いまわしい 過去へのとらわれ

空想・科学が人を追う(科学の方が人間を分析するのだ)
➡「私」を追い詰める=私について言語の自動運動で考える=独創はない
➡科学・哲学・芸術の発明品の基本的性質はある形式上の秩序を持つ
➡私の喪失
「私」の表現なんてものはない。歴史(過去)とは無数の「私」が何処かに飛び去った形骸
➡失われた時は失われた「私」そのもの、過去の経験の総体が未来の「私」
「私」はすべての過去の延長線上にあり、過去へと遡ることが「私」の未来となる

作品『秋』はこうして、過去へと遡ること、告白から空想へ、つまり意識から言語への転換点を示す里程標的な作品となった。


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