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吉田修一『悪人』を読んで

殺人者は告白する、峠と灯台


 悪人とか善人とかの観念語は、宗教的道徳的な裏付けがないと意味をなさないように思う。殺人の行為者本人は悪人なのか、そうした問いに納得できる答えがあるとは思えない。タイトル『悪人』には事実としての殺人行為を通して、人間の悪と善への深い問いが仕掛けられている。答えのない問いのままに。
 小説『悪人』は福岡市と佐賀市を結ぶ国道263号線の三瀬峠の描写から始まる。「2002年1月6日、長崎市郊外に住む土木作業員の清水祐一(27歳)が、福岡市内に暮らす保険外交員石橋佳乃を絞殺し、三瀬峠に死体を遺棄した容疑で長崎県警に逮捕された。」その殺人者、祐一の物語である。
北九州地方の、なかでも福岡、長崎、佐賀、風土や土地に関する克明な描写は松本清張を彷彿とさせる。収斂する地形と犯罪の一致は、祐一の心と体の動き、そこにまつわる閉じた社会性に連動している。「置き去り」にされた場としての「峠」と「灯台」だ。

 祐一は5歳のときフェリー乗り場で、「切符を買ってくるから、ここに居れ」「あの灯台ば見ときなさい」と言った母の言葉を信じた。自分と母親を結ぶのは灯台だと思った。
 「置き去り」に気づくのは、出会い系サイトで知り合い金銭を要求する石橋佳乃と、博多の公園で待ち合わせていたのに、佳乃が、金持ち息子の大学生増尾圭吾の車に乗って立ち去った時だ。祐一は「置き去りにされたと思うと、とつぜん全身の皮膚を破るような血がたった。」増尾の車を追う。三瀬峠で止まった増尾圭吾の車から佳乃が蹴りだされ、車は走り去る。祐一が近寄ると、佳乃は「なんで、ここにおると?もしかしてつけてきたわけ?」手を差し出す祐一に、佳乃は「人殺し!警察に言ってやるけんね!襲われたって」と叫ぶ。祐一は「嘘だ!」「俺は何もやっとらん!」と、それが「ふいに」幼かった自分の声に重なる。「母ちゃんはここに戻って来る」と叫んだ声、誰も信じてくれなかった、自分の声。佳乃の喉を押さえつけ「早く嘘を殺さないと、真実の方が殺されそうで怖かった」と祐一。

 置き去りにされた子は、この社会につなぎ留めてくれる母の言葉を信じなくて、どう生きればよいというのか。きっと帰ってくる、母ちゃんは俺を棄てたんじゃない。内心何度も繰り返した心の叫び。が、社会の良心は母親を糾弾する。それが、不安な子どもの心を絶望的な孤独に閉じ込めたことを社会は理解しない。
 長じて子は母に会うたびに金をせびるようになる。母親を被害者にして、自分が加害者の役を演じながら、育ての祖母、周りの老人たちには、可哀そうな子、いい青年であり続けた。
 佳乃は祐一を人殺しと糾弾し、手を差し伸べた祐一の真実をなじる。母親と同じだ、嘘ばっかりだ、これが、血がたぎるほどの行為の引き金となる。首にかけた手に力がこもる。

 殺人者となった祐一は人々から切り離され、罪の意識と警戒心とに嘔吐する。苦しさに、祐一は出会系サイトで相手を求め、皮肉にも本当の出会いが起こってしまう。さびしく素直な魂を持った馬込光代に出会い、告白する。あい寄る魂は結び合い離れがたい。逃亡者となって、二人は廃止された灯台に隠れる。

 殺人者は自分の罪を告白することで社会に戻ろうとする。自分を信じてくれる相手がいれば、殺人者の人格の最良の部分は守られるからだ。処罰はその次にやって来る。祐一は愛した光代に告白して、真実の光に立ち還ろうとする。すべての人の目にではないにしても、少なくとも一人に見てもらえれば、たとえ灯のない灯台であっても、社会につながることができる。峠と灯台は、善と悪、嘘と真実の境界を示す。峠も灯台も不安定な地点であり、平坦な普通の平地ではない。特殊な場である。普通に生きられない宿命を負う祐一の生きる場である。

 ベルグソン『道徳と宗教の二源泉』に殺人者は「自分の罪を告白することで、社会のなかに復位する」とある。道徳は社会の責務から逃れられない抵抗の抵抗から生まれ、責務は習慣の集積から導き出されるのだろう。
 祐一の「社会」は周囲の人々の習慣に泥みながらも、そこに居場所がなかった。殺人によって自らの絶対的孤独に直面して自分を掴む。殺人行為者たる「悪人」となったのだ。
 この小説は、だれもが被害者で加害者にもなる社会の境界を描き、悪人のなかに棲む孤独で純な魂をその境界線上に置いた。心をさいなむ物語だ。

吉田修一『悪人』 新装版朝日文庫 2018年7月30日第1刷
ベルグソン著、平山高次訳『道徳と宗教の二源泉』
              岩波文庫2021年5月14日31刷


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