江間修『羊の怒る時 関東大震災の三日間』を読んで ちくま文庫(2023.8.10)

 1923年9月1日、作家、江間修は東京代々木の自宅で被災した。知人を訪ねて大震災で混乱した街を歩き、友人の朝鮮人学生が崩壊した家の中から赤ん坊とその母親を救い出す場面に出会う。「こういう善いことをしてお置きになれば、その酬いであなた方の助けられる時だってありますわ」と近くの奥さんは言う。李君は「こんな時は朝鮮人も日本人も、自分の子も他人の子も区別ありません」と、命の尊さに微笑む。
 しかし、その翌日から朝鮮人が井戸に毒を入れた、集団で暴動、放火、略奪と流言飛語が飛び交う。朝鮮人への憎悪が広がり、虐殺、暴行。日本人でもなまっていたり、様子がおかしいと殴りかかる。群で動く自警団が町内に出来上がる。体験を書いた「小説」「記録文学」として、これほど充実した作品は2011年の東日本大震災後にもない。
 作者は鄭君、李君も多くの朝鮮人も同じ被災者と思っている。が、人々は動顛し、興奮し、理性を失って、臆病にも自分で判断ができない。朝鮮人というだけで、人間としてみない。家族を、地域を、治安を守ると、恐怖からの守りを攻撃にかえ武器を持って集まる。
 朝鮮人に対する差別意識は国家戦略であった。朝鮮併合植民地化は、土地を奪い言語を奪い、日本より劣る国と見下すことで庶民に優越感を持たせ戦争に駆り立てた。加虐には顔がないという。差別は個対個に起るのではない。国家や民族という、個の顔を持たない集団において起こる。社会主義者という言葉もまたそうである。
 それに抵抗するには、顔の見える関係を築き、人間としての尊厳を我にも人にも最重要なものとして捉えることだと、この小説は明確に書いている。
羊は人間のことだろう。群れで動き臆病で、武器を持ちたがり、ストレスに弱く、方向を見失いがちで、迷ったら戻れない動物だ。その羊が怒るのは恐怖に堪えられないからだ。人として人を認め、人間の尊厳に気づけば、恐怖と不安に距離を置いて理性的になれる。
 作者は近所の人たちや八百屋魚屋とも親しく、被災後はともに助け合う。また、作者はよく空を見上げる。倒壊家屋の上空、「地震雲」は赤く血のようだ。自然の酷薄さを映して炎上する東京の地獄をも空は見せる。人間性を取り戻すかのように空を見る。激震が続く中でも、ちょっと揺れが収まると近所の人々はゆかいな話で笑い合う。
 そして、異様な臭気と熱気が五感に刻まれるような、焼け跡に遺棄された無数の死骸と避難者の群を、兄の浅草区長と一緒に視察する場面は圧巻だ。死体処理、瓦礫処理と、被災者を平等に保護する合理的な復興行政の推進が書かれている。区長はそこに生きる人に視線を向ける。
 これが出版されたのは大震災の2年後だった。その人間を見る眼に感服する。


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