見出し画像

『ポトスライムの舟』を読んで 

 ナガセは我慢できないが傷つかない夢を行く

 長瀬由紀子(ナガセ)は29歳。大卒転職組。工場のラインで毎日8時間勤務している。休憩時間に見た世界一周クルーズのポスター「カヌーに乗った現地の少年の写真」に料金163万円とあった。それは一年間分の給料だと目が止まる、それを貯めれば・・・と妄想する。もう一枚の壁にあったポスターには、うつ病患者の相互扶助の呼び掛けがあったが、目を背ける。

 ナガセは前の会社でパワハラ、恫喝、嫌がらせを受け、自死もかなわず、うつ病を経験したようだ。前作にあるような職場体験だ。(『十二月の窓辺』2007年)そうしたバブル崩壊後の就職活動で氷河期体験をしたロスジェネ世代女子が見る夢が『ポトスライムの舟』(2008年)だ。

 ラインに並んで一日が約5430円。今がいちばん働き盛りなのに、乳液のキャップを点検する単純作業の日々。薄給の明細を見てナガセは、「時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとなく生きながらえているという自分の生の頼りなさに、それを続けなければいけないということに」嘔吐する。重要な最終点検がロボットでなく人間にしか任せられないのなら、この時給は何? 納得できないではないか。

 たまたま目に留まったクルーズの料金が給料一年分と知って、世界一周の実現のためではなく、それと等価の給料を貯めること、それがナガセの生きる目標になる。自分の内面の鬱屈から外に目を向けるきっかけだった。

 この世代には仕事を止めたら他はないとの恐怖体験がある、ライン作業はブラックよりましだ。成果を求められない仕事でも前向きに取組み、工場をやめられない。
 女性の就業者は2023年に3000万人を超えたが、そのうち54%が非正規であり、正規雇用でも低賃金だ。就業人総口は約6900万人、そのうち男性は約4000万人、男女同数に見えるが現場は女性の非正規雇用が圧倒的に多い。男性は仕事、女性は家事育児という日本の家族価値観から脱しない限り、女性は重い負担と不当な損に苦しむ。

 同年齢の友人たちは、企業勤めを辞めてカフェを始めた「ヨシカ」、大卒後すぐ結婚して家族しかない「そよ乃」、経理の資格を取って就職するも結婚して退職して子供を産んで理不尽な夫と離婚する「りつ子」。男たちがケア免除の特権に居座るかぎり、女たちはケア責任の重さに現在も未来も逃れられない。逃げ出した女たちはナガセの住む奈良、母の実家、古くて雨漏りする家をシェルターにして寄って来る。
 ポトスライムは日陰で育つ、枝を伐って瓶にさし水やりをすればツギツギ増える、明るいグリーンで人気の観葉植物。

 節約生活するうち、ナガセは体がおかしくなる。勤めを9日間休む。熱と咳で苦しむ病床で、ナガセはカヌーにポトスの小瓶をいっぱい積んで島々に配って行くが流されて自宅の庭に流れ着いたという夢をみる。

 ようやく復帰して、休んだ間も工場の給料は振り込まれたと知る。貯金は163万円を超えていた。30歳になっていた。これだけお金があると気分もいい。ポトスライムは育っている。だから、妄想よ、カヌーの少年よ、さようなら「また、会おう」。工場の守衛さんも先輩も欠勤を責めないから、生きることに和解できる。体に教えられた、我慢できないことで心が傷つくことはない。ナガセはもう鬱にならない。
 時間を金に換えるでもなく、物を消費するでもなく、ツギツギに増やしたポトスライムの小瓶を人々に配る夢、ナガセが実現することを祈る。

 工場のラインで時間管理されて働くことは不当労働ではない。が、これは人間疎外の労働パターンである。ローテーションを考慮していないのなら、工場の労務管理が適正になされているのだろうかと疑問になる。低賃金で働くことが精神に過重をかけてくるのは、軽作業なのにあたかも重要であるかのように言いくるめられてする仕事の内容でもある。乳液のキャップ点検!
 女性に任される労働の現実はこうしたものだ。何かを創る側に回らなければ、やってられない。たとえそれが観葉植物を増やすことであっても。

『ポトスライムの舟』津村記久子、講談社文庫(2011年4月4日第26刷発行)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?