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桜木紫乃『緋の河』を読んで

セクシュアリティについて

 「女になりたいのではなくて、わたしはわたしになりたいのだ」という、そのブレのなさ。性の轍を踏み越える勇気と強い意志はどこから出てくるのか。三島由紀夫の作中人物は、肉体と精神の不一致に悩みながら生きていた。社会に性の意識の改変を迫る苦しい作品世界だった。『緋の河』の主人公秀男に、内的精神の葛藤はない。男女(おとこおんな)の「なりかけ」はカーニバル真木となって「本物」になって行く。まざまざと性の現実がたち現れる外部の「普通」と戦っていく。
 ひとりで戦うのではない。幼い時から身体感覚が伝わる姉の章子、文次、ノブヨをはじめ、大人の稼業の先達マヤ、晶と、負けた人たちとともにだ。みな、秀男を賛美し、秀男から生きる力を受け取る。彼等には力の交換のような相互作用がはたらいている。三島のような精神の時代に生きてはいない。いわば身体感覚の時代に生きている。その感覚は、命を交換できる力でもある。
 学芸会の「白雪姫」は圧巻だ。「七人のこびとは酒乱と博奕打ちと女好きで、みなひねくれものばかり。王子はこびとたちの策略にはまって、わがままな白雪姫を押しつけられるお人好し」。姫の啖呵は男声のセリフで、大うけする。公認お姫様物語をけちらし、性的規範も揺らし、爆笑のなかに観客もろとも普通でない身体感覚に加担する。
 人間は男と女、出生時のセクシュアリティがすべてを決定するものなのか。自分は何者かと、人間の根源を問うてよいはずだ。
 「本音なんぞ、クソの役にも立たない」。本音に内在化した女性・男性規範の性にこそ嘘がある。性の解放は自慢も虚勢もない不思議な感覚。それは命だ。自分に自信をもって、異質であることを自覚し、「あたしはあたしのことが好き、自分が嫌いだったら、とっくに死んでいる」。自覚から自認へと身体を捉えれば、他者と身体感覚を交換できる。それは愛と言ってもよいかもしれない。
 男と生まれて、なぜこうなのか、「神様が仕上げを間違った」から「神様を許すのがあたしらの生きる道」と言う。鏡に映る自分に理想とのずれが無くなっていく喜び、この喜びは美しい。卑屈になるな。堂々と胸を張って、この体で生きるという姿の美しさ。
 秀雄のセリフのはしばしに、この物語のモデル、カルーセル・マキのしゃべりが見える。その生き方を讃える物語作者の愛があるから、この物語のセクシュアリティは破綻していないと思える。
 令和5年の今、スカートをはく男子高校生。制服は選べる、女子はズボンでもいい。トランスジェンダーの官庁職員は同じ階の女子トイレを使えると判決が出た。それでも、セクシャアリティはますます混乱するだろう。なぜなら、単純に男性、女性に分けられないのがセクシュアリティだから。

『緋の河』桜木紫乃(さくらぎ しの)令和4年4月1日発行 新潮文庫


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