見出し画像

『邂逅の森』熊谷達也 を読んで

 マタギとは東北地方の集団で狩猟を行う者ということしか知らず、マタギという音に何やら原始日本語の響きを感じていた。秋田の山に暮らすマタギがその始祖であるとは知らなかった。小説『邂逅の森』は山に生きるマタギ文化、共存する人と森の営みが描かれている。
 これを読んで、最近のクマが住宅近くに出没するニュースに、地名が気になるようになった。

 主人公松橋富治は秋田県秋田郡荒瀬村打当(ウットウ)の生まれ。大正3年冬、14歳で初マタギとなった。月山麓肘折温泉マタギ小屋から獣を殺める旅を始めた。山奥の小集落は耕作地が狭小なため、狩猟を生業としなければ生きてはいけない。山の獣を財とする。クマの胆は金ほどの価値があり、毛皮は軍用に売れる。その地、阿仁(アニ)地域は阿仁マタギ発祥の地であり、富治は仲間と「山の守り人」として育つ。
 マタギにはマタギ言葉をはじめとして様々な掟がある。破れば寒中の凍るような水垢離をする。初マタギの通過儀礼を受けて、勢子となり獲物をしとめれば、役立たずでも労われる。解体ケボカイの呪文を聞いて「何かが心に染みてきた」。山人として暮らすことの素晴らしさ、山の神を信じマタギとして生きることの覚悟を固めた。
 この松橋富治がマタギとして成長し、地主の娘に夜這いして村を追われ、阿仁鉱山で働き、苦難の末に鉱山を出て、八久和村で所帯を持ち、マタギ集団の頭領となる。

『邂逅の森』はこの男の生涯を通して明治・大正・昭和へと戦争の時代を生きる山の民の貧しさ、山の財を共有する暮らし、獲物の平等な分配、熊の胆・毛皮の流通、鉱山の労働、身売り、女たちの悲惨、村の閉じられた組織を描き出して見せてくれる。

 富治は地主の娘・文江と別れ、貧農の娘で性を売るイクと所帯を持った。二人の女はそれぞれ富治の子を産んで、子どもを生きがいにする。また、富治に二人の男が交叉する。大柄で乱暴者の小太郎と、細い体で12歳の時から鉱山夫の慰み者になり、自殺した慎太郎。

 彼らの性交の場面は、彼らが言葉ではなく体で語る本能的な生き方を軸にしていることがわかるように描かれている。イクとの性交の後、結婚を申し出ると「俺の中に鬼がいる」とイクは答える。富治は「自分でもわがらねども、俺どあんだは、そげな運命だったようにも思う。あんだと同じように、たぶん、俺の中さも鬼はいる。」(366頁)

 彼らは決して人間を軽蔑していないし、人生を愚にしてもいない。自分については、小太郎もイクも、富治も、俺の中に鬼がいると呻く。人は自分がどんな社会に生きるか知らずに生まれてきて、投げ込まれたその中で、それでも生きてゆく。それが描かれているところが、何よりもすごいところで、だからこそマタギを描いても特殊ではない。人間の社会の凄惨な現実を生き抜くには鬼になるしかない。

 体の中にいる鬼は、自分を内側から破って来る。自然や森の掟、森の神に対抗もするし、なによりも世間の慣習にしたがわない。娼婦が自らの本能を使って男と交わって何が悪い。働く男が自分を守るために掟破りをして何が悪い。人が人を超える鬼になって何が悪い。
 鬼になれなかった慎太郎は縊れて死んだ。

 山に入れば、山の神の掟は自然そのものだけだ。最後に巨大クマとの死闘で、足を食われ肩を咬まれながらヌシを殺したものの、富治は瀕死の状態となる。圧巻描写のクマとの死闘が描かれる。
 が、現在では、これもマタギの寓話としか感じられなくなるかもしれない。

 マタギが少なくなり人里に出没するクマが増加している。それは秋田に限らない、全国到る処で、温暖化で山にエサがない。山は管理する人もなく荒れている。農山村の暮らしで大切な薪を集め炭を作り、家畜の餌と肥料とに欠かせない、よく手入れされた里山も荒れ果てた。
 マタギの里は観光資源となり、人は体の中に鬼ではなく、空洞を持つようになっている。

 マタギの財だった熊の胆も毛皮も、必要としない生活が私達の現在だ。害獣となったクマの捕獲に狩猟者を依頼するが、役所から支払われる日当はわずかで銃の弾さえ賄えないという。

 昭和初期に撮影された一枚の写真、阿仁打当のマタギ組が春の熊狩りで仕留めた獲物を前にした記念写真を見た。写真の男たちの顔は、蒼ざめた狼の様な眼をしていた。この眼は獲物への憐れみ、成し遂げた安堵、なおも襲い来る気配への身構え、というような複雑な動物の眼だ。伝説のマタギの素顔を伝える故・松橋時幸さんの子孫が語るところによると、旅マタギとして全国各地に阿仁直系のマタギ集落ができ、それぞれ狩猟の方法も言葉も少しずつ変化しながら継続して現在にいたるという。が、あの眼は、いまはない。

 山と動植物を敬い、人々が自然と寄り添いながら、助け合って暮らしている姿、過酷な山間部での生活様式、自然との共生のありかたには、学ぶ要素が多い。山の神を信じるか、山で言葉にならぬ人間の恐怖を感じるか。
 邂逅の森は、自然の力を感じるところに生まれる人の心の形だと思えてきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?