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【知られざるアーティストの記憶】第79話 真夜中の話し合いと、早朝の話し合い

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

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第11章 決断

 第79話 真夜中の話し合いと、早朝の話し合い

マリはこのとき夫に伝えようとした唯一の言葉を、喉から解き放つことに苦心して、約30分間も逡巡した。
「え、なに?どうしたの?」
時々、しびれを切らせた夫が困り果てて優しい声をかける。普段は威張って怒鳴り散らす癖に、こういうときのマリには怒鳴ってはいけないことを夫はちゃんと心得ている。

「私、おとうの他に好きな人がいる。」
マリの言葉はやっと小さな声となり、空間に浮かんだ。
「ええ、マジか。そっちなの?それならよかった。よかったというか、俺はてっきりマリの体のことかと思ったよ。『癌になった』とか言われるんじゃないかと思って怖かった。それに比べれば、そっちのがまだましだ。」
マリは思いがけず夫に安堵され、情けなくいたたまれない気持ちになった。
「それは全く想像していなかったな。で、相手は誰なの?」
「ワダさん。」
ふう、と夫はため息をついた。
「体の関係は?」
「それは、してない。向こうがしてくれないから。」

マリがこの晩、それまで大切に秘めていたことを唐突に夫に打ち明けたのは、隠し続けることへの罪悪感と疲れが限界に達したという理由だけではなかった。そこには一つの外的な要因・・・・・(註1)が働き、マリはそれを夫に打ち明けることを迫られたのだ。したがって、マリがこの先どうしたいのかという腹が完全に決まった上でのことではなかった。打ち明けた結果、夫から別れを告げられればそれを受け入れるという決意しか、さしあたり持ち合わせていなかったのだ。

二人は堂々巡りの話し合いを続け、互いに顔を泣き腫らして朝を迎えた。夫を深く傷つけてしまった。俺が居るのだから、少し踏みとどまってほしかったと言いながら、夫はマリが他の男を好きになったことを責めなかった。そればかりか、マリの恋心は、立場の弱い人や寂しい人に対するマリの慈悲の性質が起こさせたものであると夫は解釈したようであった。そういうマリを嫌いにはなれない、だけど自分はやっぱり、自分だけを見てくれない人と一緒にはいられない、と夫は言った。

「俺から見ると、具合の悪そうなお爺さんにしか見えないんだけど、きっとマリにはそうは見えていないんだろうな。」
「そうだよ、私にはあの人は少年にしか見えていないんだよ。」


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』より


「もうどうせ眠れなくなっちゃったから、今からワダさんの家に行くよ。」
夫がそう言ったとき、時計を見ると、1月24日のまだ6時前であった。
「え、今から?さすがにまだ早いんじゃない?寝ているかもよ。」
「こういうときには時間なんか気にしてられない。早い時間に行くもんだよ。マリは鍵を持ってるの?もし寝ていたら、マリが起こしてきて。」

マリは慌てて服を着替え、化粧もせずに夫とともに玄関を出た。彼の戸口の前に着くと、夫は三歩後ろから様子を見守った。鍵はまだ閉まっていた。扉をノックしてみたが、中から返答はなかった。彼は毎朝4時くらいには起き出していると聞いてはいたが、本当に寝ていたらどうしよう、と不安がよぎった。マリは彼から預かっている合鍵を差し込み、夫が見守る中、慣れた手付きでぐるりと回した。

引戸を開けて覗き込むと、彼は台所に立ってこっちを見ていた。台所で何かをしていたというよりは、物音に気がついて奥から出てきた、というふうであった。
「どうしたの、こんな時間に。」
彼は驚いて丸くした両目でマリを見据えながらそう言った。
「夫が、来ています……。」
マリは彼に申し訳ない気持ちを瞳に浮かべながら、彼を見上げた。夫に打ち明けたのはそれほどに突発的なことだったので、彼にはもちろん何の予告もしていなかった。彼は先程丸くした目をさらに見開き、一瞬で事態を理解した。そして、マリの後ろに夫を見出だすと、二人に対して
「入って。」
と言った。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・28


「こんな早い時間にごめんなさい。起きててくれてよかったです。妻から全部聞きました。妻はあなたのことを愛しています。私たちは別れようと思います。これからも妻と今まで通り話してやってください。」

彼は玄関の上に立ち、二人に座布団を出さなかった。マリと夫は土間に並んで立っていた。夫は丁寧な言葉遣いと落ち着いた声でそう切り出した。

「ちょっと待って。キミたちが別れてはいけないよ。キミたちが別れるくらいだったら、私が身を引くから。セックスはしていないよ。奥さんは抱き合いたいと言ったけど。」
「そう言うと思いました!」
夫は少し声を荒げた。
「私は10代の頃に愛した女性がいた。とっても綺麗な人だったよ。」
「そんなことはどうでもいいです。」
いつもの通り、落ち着く先の見えづらい彼の話の展開に、夫は一時も我慢ならずにすぐさま割って入った。
「どうでもよくないよ!私がどういう人間かを理解してもらうために話しているんだから。」
彼も引き下がらなかった。そしてまた、のらりくらりと自分の話を続けた。彼は10代の頃から男女の性愛を乗り越え、宗教的な普遍的愛で人と繋がっていて、マリとの関係もその範囲内である。そりゃあ男と女だから愛し合うけれど、恋愛感情じゃない、あくまで人と人との愛情である。そして、マリに対しては女性としての魅力を全く感じない、と彼は説明した。

彼は長い説明の中で、マリとの関係の全てを話しはしなかったかもしれないが、少なくてもこれらの言葉はマリに対して彼が語っていたものと一致しており、その意味では一つも嘘を言わなかった。マリはまるで、悪さをして親の謝罪に同行させられている子どもみたいに夫の隣で押し黙っていた。

話の途中で彼は、漫画家の水木しげる氏のエピソードを引用した。タクシー運転手である夫が、水木しげる氏とそのご家族を頻繁に乗せていることを、マリは以前、彼に対して話題にしていたので、おそらくそれを覚えていてのチョイスだと思われた。夫も彼のその気配りを感じとり、
「それは嬉しかった。」
と後でマリに話した。

「それじゃあ私はこれで帰るので、あとは二人で話してください。」
彼が話し終えると夫はそう言って先に帰宅した。


(註1)これは、ある人間関係に起因するものである。この件に関しては、この物語の中で取り扱わないことにした。マリという人物を描くのであれば取り扱うべきであるが、彼のことを描いているこの物語で扱う必要がないからである。この人間関係のことは、マリは彼に話さないことに決めた。マリは彼に対しては何でもすべて話せると感じていたが、病気と向き合っている彼にはこの話をするのは負担が大きすぎると感じたからだ。だから彼は生涯、このことを知らずにいた。このことがこの物語と接するのは、マリが彼のことを夫に打ち明けた理由の部分と、あともう一つくらいである。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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