【知られざるアーティストの記憶】第80話 様々な愛
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第11章 決断
第80話 様々な愛
三畳の居間にキラキラと差し込むまだ淡い朝日が、砂壁の色とざらざらとした質感を最もありのままに跳ね返すので、マリは普段は居ることのない時間帯にこの部屋にいるのだということを知った。マリも彼も、先程のやり取りを経てやや放心状態で畳の上に座っていた。
「会っててもいいと夫が言ってくれてよかったな。」
マリは、うんと頷いた。
「でも、別れたほうがいいときには、いつだって別れてくれて構わないから。離婚なんかしちゃ絶対にダメだよ。」
「・・・・・・。」
「あなたって嘘をつくことあるの?」
この一件とは無関係に、マリはあるときふと彼にそう聞いてみたことがあった。彼は一瞬考えてから、
「今は嘘をつく必要性が特にないからね。でも、便宜を図ることはあるよ。」
と答えた。
マリから見て嘘を含んでいなかった先ほどの彼の弁明は、「奥さんとは恋愛関係ではない」と主張することで、どうにかこれからも会うことが許されるように、彼が精一杯「便宜を図った」ものだったのかもしれない。
「これからもこういう揉め事が続くようなら、私の体はもたない。」
と彼は静かに訴えた。しかし、彼からマリに問うても不思議はない、
「なぜ急に夫に話したの?」
という問いを、彼は決して発しなかった。
その代わりに彼は、マリの目の奥を捉えながら、
「ほんとはキミを失いたくない。」
「キミがほしい。」
という声を発した。それは彼の一番奥にある人間ではないところの何かから、あるいは宇宙の遥か彼方から届いた声のようであった。
「『最後の人生、奥さんを私にください。』ぐらい言えばいいのにな。」
夫は彼との話し合いに釈然としない様子であった。彼の認識とは裏腹に、夫はマリが彼との関係を続けるのであれば、いや、それに関わらず、マリが彼を愛し続けることはほぼ明らかに思えたので、やはり離婚は免れないという結論に達していた。
「ワダさんは、やっぱりマリが好きになるだけの人だったよ。俺に向けられなかった愛情を、10年でも彼に向けてあげて。子どもは3人俺が育てるから、マリはワダさんのところへ行け。」
それがこの日、夫の出した結論であった。
マリは子どもたちを手放すことを予期していなかった。マリのうちの半分は、喉から手が出るほどに夫のこの提案を受け入れたかったが、もう半分は子どもたちと離れることに耐え難い苦しみを感じた。しかし、もう元には戻れないのだから、夫の気持ちと子どもたちにとっての最善の形を探っていくしかないと、マリはうずくまった。
夫とともに泣き明かした晩の、マリを濡らした涙はしかし、もうとっくに愛してなどいないと思い込んでいたこの男に対する確かな愛に、気づいた涙であった。困ったことに、マリは夫という男のことも愛していて、離れがたいのであった。マリの胸の奥にある愛を幾重にもこじらせるものたちが姿を消し、この晩、夫と共に手を取り合える場所まで降りていった。それは、自分を置き去りにしていくら体を重ねてみても、到底たどり着けなかった場所であった。同情や後ろめたさ、自分を善人にしておきたい気持ちなど、余分なものを徹底的に削ぎ落した場所に確かに存在していた夫への愛に、マリは戸惑った。この景色はマリに、恋は同時に2人以上に対しては持ちえないが、愛は多様な姿を持ち、同時にいくつでも持つことができる、という気づきを与えた。
「あなたが別れたいと言うなら受け入れる。私はワダさんのことを愛し続ける。もしあなたがそれを受け入れてくれるなら、私のほうから離婚を望みはしない。」
それがこの日、マリの出した答えであった。
2022年1月24日の午後、マリの夫は離婚することを自らの両親に伝えるべく家を出たが、
≪本当にこれが正しい選択なのか。子どもたちに本当に話せるのか。まだまとまらず府に落ちていないんだよ。≫
と途中から連絡をよこし、結局実家には帰らずにそのまま引き返してきた。
「やっぱり別れることなんてできないね。」
マリと夫は硬く抱きしめ合った。
「マリが俺以外の人を好きでいることは辛すぎるけど、それよりも別れるほうがもっと辛い。それに、ハヤテだよ……!あいつが居るから別れられないんだよ!」
まだ5歳であった三男の存在が、夫を泣かせた。夫は自らが傷つく道を突き進むことを決めた。なんと、マリの行動と気持ちに何の制限も設けずに、イクミとの関係を認めたのだった。夫婦はこの日から、まるで出会ったばかりの二人のようにお互いを思いやり始めた。
「わかった、イクミさんの私に対する気持ちって、お見合い夫婦の感情に似たものでしょ?入り口としての恋愛感情を経ないで、家族愛を育んでいくような。」
マリは自分に対する彼の気持ちを理解したくて、このような質問を投げかけてみた。
「え、そうなのかな。わからない……。」
と彼は答えた。「お見合い夫婦の感情」について彼は考えたことがなかったのかもしれないが、マリにとってはさしあたりそう考えることが一番理解しやすかった。恋愛という熱情は誰にとっても一時のものであるが、愛の形は様々である。初めのうちだけであっても、マリは彼とお互いに燃えるような恋心で惹かれ合いたくはあったが、そうでないのならばそれを受け入れることはできた。彼がマリの夫に話した通りに、彼が生涯で恋をした相手は、唯一彼が十代のときに愛したその女性だけなのかもしれない。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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